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2007年。初めて来た頃のインド就職事情

2007年にインドを目指して働きに来る日本人はどれぐらいいたのだろう?

外務省統計を見ると、インドの在留邦人数は当時約2300人。南インドのバンガロールでは300人ほどだったと聞いていた。その多くがトヨタやデンソー、大手商社などの現地日系メーカーの駐在員だったと思われる。

ちなみにその10年後、2017年の統計では在留邦人数は9000人を超えている。バンガロールはデリー首都圏に次いで2番目に邦人が多く、1000人以上と言われる。

日本人にとってはインドがまだまだ遠い国だったそんな頃でも、タイやベトナム、韓国などアジアの他の国からはたくさんの留学生が英語とITを学びに現地の大学に来ていた。日本からの留学生は、ヒンディー語などの語学留学で短期に来ている場合を除くと、かなり少数派だったと思われる。

そして現地採用としてインドに渡る日本人も、今と比べると相当少なかった。残念ながら現地採用としてインドで働く邦人数の統計データはないが、インド全土で100人もいなかったのではないかと思う。

それもそのはず、日系就職エージェントでは一番乗りのパソナがインドに進出したばかりだったけど、「インド就職」とググってもその頃はまだ何も出てこなかった。

それでも、その頃現地採用で来ていた日本人たちは、(今となっては懐かしいSNSの)ミクシィの掲示板でインド求人の書き込みを見て来る人がほとんどだったそうだ。

インドで働く経験を積んでキャリアをステップアップしよう!というより、インドが好きで住んでみたいなら仕事しませんか?という呼びかけに応えて来ている人たちだった。そういう自由で我が道をゆく的な人たちが集まっていた。

上の写真は2007年のコマーシャルストリート(バンガロール)。ちなみに冒頭写真は2007年のMGロード(バンガロール)。まだメトロ工事も始まってない頃で見晴らしがよかった。

私のインド就職体験

2007年、まだ学生休学中だった私は海外インターン先としてインドを選んだ。

大学4年生になるのを控えた2017年の2月ごろ。もう新学期が目の前というタイミングで、急ブレーキをかけて休学届を滑り込ませたのを覚えている。

就職活動が助走からだんだんペースが上がってくるこの時期に、 リクルートスーツを来て就活フェアみたいなものに顔を出してお決まりのゲームに参加している自分がいやになった。

外語大にいながら、ろくに国際体験もせず、フツーの部活とフツーのバイト、そしてフツーの授業態度でごく平凡に過ごしてしまったことに思いっきり後悔。

何よりも 「外大出身なのに海外住んだことない」コンプレックス(笑)が克服できていなかった。最終学年を迎える直前になって「海外生活」をやり残したと本気で反省した。

卒業を一年延ばしてでも、今からでも行けるオプションを調べて海外に出てみようと思い立った。

じゃあ、どこへ行く?何をする?と、新学期直前の土壇場で進路探しが始まる。

真っ先に頭に浮かんだオプションは

1・海外留学
2・ワーキングホリデー
3・インターンシップ
4・ボランティア

このうち、計画性のなかった自分に1・2のオプションはすでになく、1に至っては親も頼れず資金も乏しかったので即ボツに。

結局、卒業後すぐに活かせる実務経験が積めて、英語のトレーニングにもなり、現地の生活費も自分でまかなえる3を選ぶことにした。

消去法だけで選んだわけではない。この頃、大きく影響を受けたものが2つある。

一つは、同じ頃大学で受けていた経済学の教授の言葉。
BRICs という言葉がまだ新鮮だった当時、新興国経済に焦点を当てて「これからは欧米ではなくBRICsを目指しなさい。あなたたち、海外で活躍したいならBRICsで働いてみるのがいいよ」と、冗談混じりで(当時はそんなニュアンス)言っていたけど、なぜかその言葉に特別な刺激を受けてしまった。

もう一つは、同じ頃に読んだ『フラット化する世界』。
インドのシリコンバレーと呼ばれているバンガロールにある、インフォシスという地元大手IT企業で、たくさんの若くて優秀なインド人エンジニアたちが米国との時差を利用して働く。米国エンジニアの仕事がどんどん奪われているというシーンが登場する。

そこに書かれているのは「グローバリゼーションによって外国人に仕事が奪われる」シーン。


よし、ここを目指そう!
とミーハーな私は、すぐにでも現場を見てみたいと思った。

・・・とはいえ、インドへ働きに行くこと自体が奇抜だった当時。

先述のように、インドで仕事を探すための情報も、インドの生活がどんな風なのかという情報もネット上ではほぼ皆無だった。少なくとも日本語で調べる限りでは。

そこで英語の情報をネット上で探し回り、学生向けにインターンシップの紹介をしてくれるAsiainterns.comというサービスを発見。26歳の若いドイツ人起業家が立ち上げたサービスだった。このサイトに登録してバンガロールのインターン求人を紹介してもらう。

インターン先は、インドの名門IIT(インド工科大学)やIIM(インド経営大学院)を卒業してアメリカで戦略コンサルに勤めた、輝かしい経歴のある精鋭インド人4人が立ち上げた市場調査会社。 まだ立ち上がって5年も経たない会社だったが、従業員は80名ぐらいいた。

アメリカの顧客が大部分で、ネット環境さえあればインドからでも同じ仕事ができるという売りで急成長している会社だった。

ここなら「フラット化する世界」が体感できるだろうと思い、外国人社員第一号として80人のインド人の職場に飛び込むことを即決。

採用面接では一流コンサルばりに「東京都のマンホールの数を推定せよ」というようなことを聞かれて、面接対策もろくにせず業界知識ゼロの私は石のように固まっていたことだけ覚えている。

それでも、日本語さえ話せれば何かに使えるだろうと思われたようで、すんなり採用が決まった。

2010年以前のインド就労ビザ事情

一般的に人気のないインドで就職することの(他国に比べての)容易さは今も昔も変わらないと思うが、当時は雇用主から内定を得ることが簡単なだけでなく、就労ビザの発給水準もゆるかった。

インド就職史(笑)のチャプターは「2010年以前」と「2010年以降」に大きく分けられる。

年間給与が25,000米ドル以上でなければ外国人を雇用できない、という通称ワンラーク・ルールができたのが2010年。月給ワンラーク(1 Lakh=10万ルピーの意味)というと、現地では部長クラスの給与水準。2010年以前は、ただ外国人というだけでワンラークもポンっと出してしまうなんて考えられなかった。

このワンラーク・ルールによって、コストカット目的でインドに職を移した欧米大手IT企業や、ほとんどのインド企業では、一斉に日本人の雇用が打ち切られた。

その一方で日系企業のインド進出は増えていたので、日系企業では現地採用求人が増えていった。日系企業にとっては、駐在員に比べれば圧倒的に安く雇える現地採用社員にワンラークの給与を出すことはそんなに痛いことではない。

「2010年以前」にインドで働いていた日本人は、身なりや生活水準がインド寄り。この年を境に、インドで働く日本人の風貌がなんとなく変わっていった気がする。

注釈:ワンラーク・ルールはもともと、インド国外から低賃金で入ってくる労働者を排除するために作られたそう。若者人口が多いインドでは慢性的に仕事が不足しているので、外国人が雇用機会を奪わないよう、現地スタッフの何倍もの給与を会社側が提示しなければ雇用できないようになっている。ただし、翻訳通訳者などの言語専門家としての仕事に限ってはワンラーク・ルールは適用されない。




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