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ピアニスト、藍の使者になる(5)

 誰にとっても「結婚」は人生の大きなターニングポイントであると思います。私にとっては、音楽との「断絶」と藍との「出会い」を引き起こすものとなりました。

1、自宅にピアノの無い生活

 結婚して初めて、自宅にピアノの無い生活が始まりました。ピアノのある元の家から近い場所に住むということもあり、それほど危機感はありませんでした。そのうちに、お金をためて買えばいい、くらいの意識でいました。カフェでの演奏会とピアノ教室はそれまで通り続けることが可能でした。
 人生の大きなターニングポイントを明るい気持ちで切り拓いて行きたいと思っていましたので、家にピアノが無いことをマイナスとは思わないように心がけていました。
 それから、結婚前から町の小さな合唱団に通っており、週に一度の練習には結婚後も通えていました。合唱団を指導してくださっている先生に個人的に声楽のレッスンに通わせてももらえていました。
 
 やがて妊娠していることが分かり、すべての音楽活動は出産直前で一度休止することにしました。命を授かるということに興奮していたし、育児休暇が明けたら、また新しい実感を持って音楽に向かえると、ワクワクしていたように思います。

2、起業、そして音楽との断絶

 長女が生まれて約一ヶ月が経った頃、会社で勤務中の夫から自宅に電話が入りました。
「今、会社が倒産しました。」あ、とうとうですか。もう何カ月も前から、朝早くから夜遅くまで缶詰めになって会議を繰り返していたこともあり、社会経験の浅い私でも「危ない状況だ」ということくらい察しが付いていました。私ものんびりした人間で、今すぐに一文無しになるわけでもないのだから、まずは落ち着いて次のことを考えようと思っていました。夫は様々な資格を持っているから、再就職も何とかなると軽く見積もっていたのです。

 ところがこれが、決まらない。面接申し込みの書類を送っても返事をもらえないということが普通に起こりました。勤めていた会社が倒産して月3カ月が過ぎる頃には、焦る気持ちが頭をもたげ始めます。
 そんなある日、夫が寝言で叫びました。「藍の石けんを売る会社作りたいなぁ!!」……まだそれを言うのか……

 実は、この頃既にほぼ完成していた藍の石けんを自分たちで毎日使っていました。妊娠中、極度の肌荒れでずっと悩んでいた夫のためにと試作を繰り返した手作り石けんの、私なりの到達点が藍を配合した石けんでした。
 藍の薬効や働きかけなどについては別の機会に細かく触れるとして、両親が藍を栽培する農家である幸運に恵まれ、普通なら入手困難な素材をふんだんに使える上に、藍を配合した石けんは夫の肌をとても快適に整えてくれたので、できるだけ切らさないように私が作るようにしていたものです。

 その石けんを売る会社を作ってみたい、と時々夫が訴えてきましたが、私はまともに相手をしませんでした。会社に勤めたこともない私に、会社を作るということがどういうことなのか想像つかないのです。「人の役に立つ仕事になる。これは売れるはずだ。」という夫の主張は簡単に曲がりません。拒み続けていた矢先のこの寝言でした。

 なかなか仕事も決まらないことだし、寝言で叫ぶほど望んでいる事なら、一度挑戦してみようか。うっかりそんな気持ちになってしまいました。そこから会社はあっという間に立ち上がり、夫ではなく私が社長の肩書となってしまいました。「石鹸を売る会社なら、女性が社長の方が印象がいいから。」という夫の弁で、私にとってはとても気の重いスタートでした。だって何も知らないんです、「会社」が何であるのかを。「社長」が何をする人なのかを。いずれ、見るに見かねた夫が交代してくれるだろうと思っていました。

 会社を立ち上げようと気持ちを変えてしまったのには、まだほかの理由があります。
 両親が藍を栽培していることで、伝統工芸の藍染めがとても厳しい状況に陥っているということを身近に見聞きしており、何とかならないものかと胸を痛めていました。もし、この石けんで藍に新しい未来を作ることができるなら、それはとても大切な事ではないのか…と考えてしまったのです。

 立ち上がった会社を何とか走らせるため、予想もしなかった激務をこなすことになりました。立ち上げてから半年は、睡眠時間が2時間という日々が続きました。小さいながらも一歩ずつ経験を積みながら歩いていく最中に、音楽から少しずつ離れていくことになりました。合唱団と声楽のレッスンに通えなくなり、カフェの演奏会も再開の目途が立てられず、やがてピアノ教室も時間のやりくりが叶わないほどになりました。
 あれほど打ち込んできた音楽が、私の暮らしから姿を消した。こんなことになるなんて、想像もしていませんでした。けれど恨み言を言う気分でもありませんでした。ただ必死だったのです。何か新しいことができるのではないかという想いに、すっかり駆り立てられてしまっていました。

3、よっさん爺さん現る

 大変だったのは実家の両親だったでしょう。突然立ち上がった私たちの会社に対応するために、古い納屋を作業場に改装しなければならなくなりました。その様子を見ていた近所の方が、父にこう声をかけてくれたそうです。「あんたんとこは、先祖返りしたなぁ。」聞けば父から4代前のお爺さんが藍染めの染料を作る藍師だったということです。4代前のお爺さんは「よっさん爺さん」と呼ばれ、親族が集まる法事などで時々話題に上がる「伝説のお爺さん」でしたが、藍師だったとは知らないままでいました。
 納屋の改装が順調に進められていたある日、その証拠となる物が姿を現しました。棟札です。「寝床守護」とはっきりと書かれた棟札が、打ち付けられた当時の場所にそのまま残されているのが見つかりました。「寝床」というのは、藍染めの染料「すくも」を作る作業場を指します。明治25年の日付は4代前のお爺さんが還暦を迎えた年にあたり、その棟札を手に取って確かめた父も、還暦を迎えていました。それを偶然と思えない様子の母が「私たち、呼ばれたんじゃないの?」とつぶやきました…

 私が楽しく悶々と過ごした音楽大学時代。その学費は実は、このよっさん爺さんが残してくれた土地を譲り受け、切り売りして捻出したものでした。じわじわと、「もしかしてず~~~~~っと、よっさん爺さんの手のひらの上で踊ってたのかしら…」という想いが沸き上がってきました。音楽の道を歩んだことも、私が「ルーツ」から意識を外せないことも、夫と結婚したことも、もしかしてぜ~~~んぶよっさん爺さんの企て!?だってこんな話なら、藍はまさしく私のルーツと言っていい素材ではないですか。「こっちへ来い。おい、俺に気づけ。」よっさん爺さんがそう言っているのではないのかという気がして、仕方がなくなってきました。……謀ったな、よっさん爺さん……ずいぶん回りくどいことをしてくれるじゃないの……

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