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ピアニスト、藍の使者になる(3)

 音楽大学入学後、イタリア人の恩師から大きな影響を受けながら過ごしておりましたが、ある日本人からも「ルーツ」というキーワードで深いインパクトを受け、それが大切な出会いにつながりました。
 今回は「日本人であること」を肯定的にとらえていけるようになるきっかけをくださった方とのエピソードです。

1、舞踏神の雷に撃たれる

 ピアノのレッスンや試験で課題に出された曲に取り組む際、作曲家のパーソナリティや暮らしぶりなどをできるだけイメージしたくて、様々な資料にそのヒントを探しました。
 主な音楽家の一通りの伝記は大学入学までにほぼ読み終えていたので、西洋史のより細かなディテールの分かりそうな歴史専門書が私の図書館での「狩り」の主なターゲットでした。
 ショパンの作品に取り組んでいるときは、彼が食べていたであろうパンの値段や毎日通っていた美容サロンの技術料が知りたくて、当時の経済事情や農産物事情の分かりそうな資料を血眼になって探しました。(時代を超えたストーカーといった風情。)

 そんなことをしている最中、ふと目に留まった歴史エッセイのような本のタイトル『東西不思議物語(澁澤龍彦:著)』に惹かれてなんとなく手に取り、パラパラ流し読みしているうちに横道にそれる楽しみに浸ってしまい、そのまま最後まで読んでしまいました。
 この横道散歩はとても楽しく、そのうちに夢中になり、結局当時活字になっていた澁澤龍彦さんの著作の全て(サド裁判の記録も)を読むに至りました。

 ある日のテレビ欄に「澁澤龍彦」の文字を見つけしっかりチェックすると、NHKで彼のドキュメンタリー番組が放送されることが分かり、とてもワクワクしながら録画セットを万全にスタンバイした上で、リアルタイムで視聴しました。(NHK教育 1994年5月15日放送分 『日曜美術館 幻想の王国-澁澤龍彥の世界』)
 澁澤さんに影響を与えた交友関係の話題の中で、異様な白塗りの身体で舞台を這うようにして何かを表現している長髪の男性が、ほんの数秒だけ映りました。その数秒の間にすっかり心を奪われてしまい、録画したビデオを何度も巻き戻してじっと眺め(メインの澁澤さんそっちのけ、ここでも横道にそれる私…)、「もっと知りたい」という衝動に駆られて舞踏家の名前「土方 巽」をメモに走り書きして握りしめ、地元の芸術センターに出かけて検索をかけました。

 できれば、舞台の録画などが見つかるといいのだけれど…という淡い期待は裏切られましたが、ご本人の著作と奥さまの著作がそれぞれ1冊ずつだけ見つかり、どちらも借りて帰ることができました。
 奥さまの著作『土方巽とともに』は、ご夫婦の舞台活動を中心にお二人の歩まれた軌跡の記録として、とても興味深いものでした。1960年代に東京で活躍された土方さんの人物像がよりクリアにイメージできるようになり、宝物の1冊となりました。土方さんご本人の著作『美貌の青空』も、交流のあった人への眼差しが柔らかでありながら鋭く、優しい感覚をお持ちの人なのが伝わり、印象に残りました。

 1960年代のギラギラとしたエネルギーをアングラ劇場で爆発させる舞踏神と、彼を取り巻くギラギラとした才能の持ち主たち(澁澤さんはもちろん、三島由紀夫、池田万寿夫、唐十郎…)の「何かやってやろう」というむき出しの野心を感じられる記録に触れることは、それからの私のお気に入りの時間となりました。

 土方さんはお亡くなりになった後でしたが(前述のドキュメンタリー番組で、土方さんの葬儀委員長を務めておられる澁澤さんの映像が既に流れていました)、奥様はご健在のご様子。「いつかお会いして、お話しできないかなぁ…」と思うようになっていました。
 そしてその日は本当にやって来ます……1996年2月29日、私は土方さんと奥様である元藤先生の拠点「アスベスト館」の扉の前に立っていました。

2、武満徹さんの告別式

 その約1週間前の新聞の死亡記事欄に、作曲家の武満徹さんの訃報が写真入りで掲載されているのを発見しました。「しまった…」と思いました…。武満さんは私の「いつかお会いしたい人リスト」に名前を連ねていたお一人でした。
 この「お会いする」というのは、面と向かって直接お話しするような近しい状態のものから、ご本人が講師などをされるセミナーへの参加というザックリとしたものまでの様々なレベルを包括しており、武満さんのような雲の上のお方については「どこかの音楽大学の特別セミナーとかワークショップで講師をされる時に何とか参加したい!!」といった割と控えめで叶いやすいレベルの希望を持っておりました。

 会えなくなってしまった…残念で仕方がない…せめてお見送りだけでもさせていただきたいなぁ。新聞記事には告別式の日時と会場が記されており、それが1996年2月29日。場所は信濃町でした。学校は長い春休みに入っており、先生もお国のイタリアへ帰省中。自由時間と元気の有り余っていた私はその記事を切り抜いて、通帳の残高とにらめっこ。当時の居住地愛知県から東京まで、新幹線を使わず在来線で移動し、宿泊は練馬に住む友人宅に泊めてもらえば何とかなるな…独自の算段と判断で、武満さんの告別式当日の会場入り口にたどり着き(告別式に参加したわけではありません、当然ながら)、雪の降る中傘をさし、ご遺体を乗せた霊柩車が会場を出ていかれるのをお見送りさせていただきました。恐らく同じような思いで駆け付けていたやはり学生と思しき人たち数名も同じように傘を差し、静かに押し黙って、一斉に頭を下げ一緒にお見送りしました。

 会えなくなってしまった…「いつか」と思っているうちに。
 「いつか」なんてダメなんだ。「今」会わないと「いつか」なんて来ないんだ。
 悲しみと後悔で妙に高揚した状態に陥り、信濃町の駅から電車に乗ってそのまま目黒駅へ。電車を降りて、雪の降る中とぼとぼ歩いて向かった先が「アスベスト館」でした。

3、ルーツを昇華する人

 アスベスト館の住所は元藤先生の著作の奥付に記載されていました。初めて降りる目黒駅。初めて歩く目黒の町。電信柱に記載されている番地を確認しながら、その住所を目指しました。
 アスベスト館に到着し、コンクリートの階段を上って、目の前に現れたインターホンを押し、ドアが開いた瞬間に、自分が何の言葉も用意していなかったことに気が付きました。とりあえず、不審者と思われないようにしなくては…「名古屋から来ました。澁澤さんのドキュメンタリーで土方さんの舞踏を観て、忘れられなくなって、彼の踊る姿が見たくて録画を色々探しましたが見つけることができません…」
 ドアを開けて対応に出て来てくださった女性に一方的にしゃべり続けました。その方はにこにこと笑ったまま聞いて下さり、私が一通りしゃべり終わるのを待って、中へ通してくださいました。「寒いから、おはいりなさい。スタッフの子たちはニューヨークに行っちゃってて誰もいないし、ちょうどいいわ。」
 その方が通してくださった部屋にはテレビとテーブルとソファがあって、差し出されたいくつかのVHSテープを再生すると、渇望し続けた「動く土方さん」の姿が映し出されました。部屋には私一人が残され、テーブルにはいつの間にか湯気の立つコーヒーカップが置いてありました。

 その日鑑賞させていただけたのは、舞台『肉体の叛乱』と『静かな家』。それまでに観たことのない動き、演出、舞台を包む雰囲気に魂を抜かれたようになってしまいました。土方さんの著作には、秋田県のご出身であることやその農村地域で育まれた身体の中の「記憶」が、ご自身の舞踏表現と密接に関わっていることが度々語られていました。それをやっと目の当たりにできた率直な感想は、「怖くて、かっこいい」でした。
 土方さんの文章で「のっぴきならない」という表現が用いられていたことを思い出しながら、白塗りの半裸の身体が躍動するのを凝視していました。切羽詰まった、どうしようもない「何か」を抱えた身体が、訴えながら舞っている。美しさを取り繕うステップも、つま先立ちの優雅なターンも排除された、これは確かに「秋田の農村で育った男」の踊り。

 盆踊りでもなく、ドジョウ掬いでもない。けれど紛れもなく日本の田舎の土から生まれた独自の表現だと感じました。それが私には掛け値なしにかっこよく見えた。そして、羨ましかったのです。私も日本に生まれた人間だけど、そのルーツをこれほど人の心を掻き立てる表現に昇華させられるようになれるだろうか。そんなことを考えたことも望んだこともなかったけれど、それを具現化した人の存在を目の当たりにして、羨ましくて仕方がなくなってしまいました。

 渡してくださったビデオをすべて観終わると、訪れた時は明るかった空が真っ暗になっていました。恐縮しながら「ビデオを観終わりました。ありがとうございました。」と別室の女性にお礼を告げると、今度は黄色い小さなチラシを手渡されました。
「来月、舞踏のワークショップをするから一緒に踊らない?講師は私なの。」
 チラシに記された講師名は元藤燁子。土方さんの奥様でした。「今度いらっしゃるときは電話してね。」と言われて初めて、その日の自分の不躾な訪問に恥じ入りました。何かにとりつかれたように何の計画もなくふらふらとやってきて、初めて上がらせていただいた場所で遠慮もせずに約4時間居座ったのです。よく追い返されなかったものです…
 踊りなんてまともに習ったこともありませんでしたが、とりあえず参加してみることにしてしまいました。断る理由が私には無かったように思います。その後大学を卒業するまでの間、長い休みになるとアスベスト館のワークショップに駆け付け、元藤先生の踊りと言葉を通して土方さんの魂に触れる時間を大切に過ごさせていただくようになりました。

 ワークショップ中に起こった印象的な出来事の一つは、元藤先生が参加者全員に好きな音楽を持参させ、その音楽に合わせてひとりひとり振り付けをしてくださったことです。
 私は5/8拍子のミステリアスで軽やかな音楽を持参しました。それを一通り聴いて先生が私に振り付けてくださったのは…「海の底で 空気の球を抱えて 転がる微生物」。今、冷静にこの字面だけを見ると「なんじゃそりゃあ!!」と叫びたくなるタイトルですが、これを踊った当時の私は、踊っている間中幸せでした。

 その時の音楽がこちらです。
    Adiemus : Cantus Inaequalis

 私の横道散歩は、不良紳士 澁澤龍彦氏の手引きによって秘密の花園に隠された深い沼(池でも噴水でもなく、沼です)に導かれ、思いもよらぬ蜜の味を覚えることになってしまいました。

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