小田島裕一「オダジ」

札幌にて15年間中学校教師として勤務。2006年から2年間ウガンダ共和国にて、青少年に…

小田島裕一「オダジ」

札幌にて15年間中学校教師として勤務。2006年から2年間ウガンダ共和国にて、青少年に野球指導を行う。著書に「日本人という生き方」が ある。㈱インディヴィジュアル 代表取締役 https://www.individual.co.jp/

最近の記事

狭き門より入れ

「狭い門から入りなさい。滅びに 通じる門は広く、その道も広々と して、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門は、なんと 狭く、その道も細いことか。それを 見いだす者は少ない。」 マタイ7章13-14節 世の中の仕組みを学ぶにつれ、この 聖句の意味がよく理解できるわけで ある。 つまり、この世の中の仕組みに 盲目的に従い、大衆の価値観に 染まり、ただただ生きてゆく。 その道の先に、命の輝きは ないと

    • 勇気と恐怖

      勇気とは、ものおじせずに 立ち向かう気力のことをいう。 自らの人生を振り返ると、 勇気というたいそうなものは 持ち合わせていなかったのである。 あったのは、ただ恐怖だった わけである。 それゆえ、安全地帯に居座り、 できれば、現状維持に努めたいとする消極的な態度で生きていたわけである。 しかし、安全地帯に留まっていれば、恐怖が収まるかといえば、 決してそうではなかったのである。 「ここに留まっていたら絶対に後悔 する」 挑戦しなかったことによる後悔の念。 この恐怖

      • それでも人生にイエスと言う

        「いつまでも信じていたい。 最後まで思い続けたい。 自分が生きる意味があるはずと」 ~反町隆史「POISON」より~ 自らの深いところから湧きあがって くる思いを言葉にすると、これだったわけである。 「自分は生きる意味があるはず」 これを信じて生きてきたのである。 だから、周囲や自分自身の期待に 応えられない。 そのような状況になった時には、 死にたくなったのである。 自分には、生きる価値がないと 信じ、絶望してしまっていたからで ある。

        • 人生のソムリエ

          天の下の出来事には、 すべて定められた時がある 生まれる時、死ぬ時、泣く時、笑う時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時、黙する時、語る時 愛する時、憎む時 ~伝導の書より引用~ 「天の下の出来事には、定められた時がある」 この意味を本当の意味で理解できる。 そのような人間になりたいもの である。 そのために、人生の喜怒哀楽を、 とことん味わい尽くさねばならない のである。 美味を味わうだけで

          生きる意味と人生の価値

          「いつまでも信じていたい。 最後まで思い続けたい。 自分が生きる意味があるはずと」 「反町隆史~POISONより」 自らの深いところから湧きあがってくる思いを言葉にすると、これだった わけである。 「自分は生きる意味があるはず」 これを信じて生きてきたのである。 それゆえ、自分には生きる価値が あるはずと納得しようと、あれこれ 躍起になって生きてきたのである。 だから、周囲や自分自身の 期待に応えられない。 そのような状況にな

          生きる意味と人生の価値

          孤独でなければならない

          人間は孤独でなければならない。 孤独になってはじめて、 自分は一人ではないこと、 ずっと一人ではなかったことに 気づくことができるからである。 人間は孤独でなければならない。 孤独になってはじめて、その 独り言が、実は、誰かとの対話で あることに、しかもずっと そうであったことに気づくことが できるのである。 ヴィクトール・フランクル 「苦悩する人間」より つまるところ、神の愛。これに気づくために、孤独が必要となるのである。

          孤独でなければならない

          生きることは義務である

          人間は、「楽しみのために生きているのではない」 また、「楽しみのために生きてはならない」 ナチ強制所を生き延びた精神科医 ヴィクトール・フランクルは、こう 喝破している。 死刑囚が、処刑の数時間前に、 最後の食事の献立を好きなように 考えて良いと言われたとする。 しかし、この男にとって、 ほんの数時間後に、死体になる 運命のこの有機体の胃の中に、 美味しい食べ物をつめこもうと、 つめこむまいと、まったく どうでもいいことなのである。 それゆえ、どんな申し出も はねつ

          生きることは義務である

          自分を知るということ

          自分を知るということは、 どのようなことなのか。 これをいつも考えるわけである。 「自分は、この程度の人間だから、 このくらいの暮らしぶりが、 身分相応であり、まずまず満足で ある」 自分自身に対するこのような 態度は、自分を知ることとは、 たいそうかけ離れていると考える わけである。 では、自分を知るとは、いったい どういうことなのか。 それは、「自分はなぜこの時代に、 日本国に、日本人として生まれた のか」 そして、「自分はなぜこの家系に 生を授かり、この両親

          自分を知るということ

          人生の目的地

          目的地とは、これから行こうとするところであり、めざす場所のことで ある。 自らの仕事において、この目的地が わからなかったのである。 いったいどこを目指すのか。 これが、はっきりとしなかった わけである。 だから、ただ目の前のことに集中したのである。 ただ我が身に降りかかってくる 問題の解決に努めたのである。 このような場当たり的な 生き方で良いのだろうか。 目の前の課題に対処しながら、 ひとり思い悩んでいたのである。 心熱く燃やすことができる。 そのような

          原点回帰

          原点回帰とは、基本に立ち返る こと、初心に立ち戻ること。 そもそもの事の起こりに再び 忠実になることをいう。 では、この原点とは、「いったいどこにあるのか。」ということになる。 「どこまで戻れば、基本に立ち返る ことができるのか」ということに なる。 思うに、自らの原点は、失意どん底の時にある。 すべてを捨て、あるいは失い、 裸一貫となりし時にある。 「何もないから」 隠れていた自らの原点が 見えてくるのである。 何もないから、失う恐怖がない のである。 何

          顧みて悔いのない人生

          「我が青春に悔いなし」は、激動の 時代に生きる者にとって、示唆に 富んだ映画である。 主人公の幸枝は、旧友の野毛に東京で再会し、自らの思いを吐露するのである。 「三年になりますわ。その間に私、 三つも職場を変えてきたのですわ。 それだってただ食べてゆくための仕事っていう意味しかありませんでしたわ。私、何かこの身体も心も何もかも投げ出せる。そういう仕事がしたいんです。家を出る時、父が言いましたわ。華やかに見える自由の裏には、 苦しい犠牲と責任があることを知れと。私、そういう

          顧みて悔いのない人生

          砂の上の足跡

          ある晩、男が夢を見ていた。 夢の中で彼は、神と並んで浜辺を 歩いているのだった そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映しだされては、 消えていった。 どの場面でも、砂の上には、 二人の足跡が残されていた。 一つは、彼自身のもの、もう一つは、神のものだった。 人生のつい先ほどの場面が目の前から、消えてゆくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。 すると、彼の人生の道程には、 一人の足跡しか残っていない 場所が、幾つもあるのだった。 しかも、それは彼の人生の中

          白痴

          映画「白痴」の冒頭に、次のような ナレーションがある。 「原作者ドストエフスキーは、この作品の執筆にあたって、真に善良な人間が描きたいのだと言っている。そして、その主人公に白痴の青年を選んだ。皮肉な話しだが、この世の中で、真に善良であることは、白痴(バカ)に等しい。この物語は、一つの純で清浄な魂が、世の不信、懐疑の中で、無残に滅びてゆく痛ましい記録である」 主人公の亀田は、戦時中、銃殺刑に処せれる寸前で助命されたという経験があり、この時のトラウマが原因で白痴という病にかか

          貧困の光景

          アフリカでは、子供に対するエイズ検査は、行わないほうが良い。 HIVが、プラスになると、親はもう その子にミルクを与えない。どうせ死ぬ運命の子供より、少しでも生きる 可能性のある子を食べさせないと、 一人の子も残らないことになるのだ。 ~曽野綾子「貧困の光景」より~ 貧困は、自らの価値観を明らかに するのである。 だから、この母親を責めることはできないのである。 なぜならば、「我が子を一人でも生かす」という目的が、彼女の判断の拠り所となっているからである。 思えば、このよ

          孤独には目的がある

          砂漠の石の上に座れ ホレブの洞穴に独りでいた エリヤのように そうすれば、 優しい声が荒野の彼方から 聞こえてくる むずかる子を慰める 父のような声が 苦しさ、怒り、恐れを 消し去り、こう言う 「人は遠くにいるが、 神は近くにいる」 トマス ブリングル「 Confort and cheer a far in the desert」より 孤独には、神の目的がある。 神との対話のために、 孤独な時間は必要となるわけ である。 自己と対話し、神と対話し、 魂と対

          孤独には目的がある

          時空を超えた友

          内村鑑三は、海外を旅することで 得られる有益な成果について、 次のように述べている。 「異国での生活ほど、自己を見つめるのに、適した環境はない。逆説的に聞こえるかもしれないが、自分のことをもっと知りたければ、世界に飛び出すことである。他の民族、他の国々に接する場所ほど、自分のことが明らかになる場所はない。内省がはじまるのは、目の前に別の世界が現れる時で ある。」と。 そして、いくつかの事柄が相まって、このような結果がもたらされるのだという。 「第一に、異国に滞在する者に