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「物事に張り付いている意味」を取り払って、ただ対象に向き合う・観察する

【日々の石写真】と題して、1日1回インスタグラムに石の写真を投稿することをはじめて、かれこれ5ヶ月が過ぎております…
この行為を続けてみて、自分の中で本っ当にいろいろな発見があります。
そのことについて書いてみようと思います。

(上の写真は「雨」のイメージで撮ったもの。「神の杖のひと振りで世界に雨がもたらされる」というイメージで撮りました)

<見る、という行為について改めて気づいたこと>

毎日石写真を撮り続けて「人間は結構自分の周りの世界を漠然としか見ていなかったりするのかも」ということを改めて感じました。

例えば、日々身の回りにあったりする、机や椅子やドアや窓。
自宅のものでも職場のものでも、歩いている時に見かけるものとかでも何でも。
そういうものを、いつも詳細まで「見ている」かと言うとそうでもない。
実はうすらぼんやり、漠然としか見ていなかったりする。

今いきなり「貴方が職場で座っている椅子をできるだけ細かい部分までイメージしてください」と言われたらどこまで詳細を思い出せるか。
大体のイメージは思い浮かぶだろうけれど、詳細をみっちり思い浮かべられる人は少ないんじゃないかと思う。

そんな風に、人は自分の視界の全てを子細に見ている訳ではない。
漠然と見ることでもう了解してしまう。

それができるのは多分「机」「椅子」「ドア」「窓」の<概念>が既に人間の頭にあって、そんな細かい部分までいちいち見なくても日常生活はこと足りるから。
職場の椅子をみっちり観察しなくたって、別に問題無くすぐ座れる。仕事にも支障はない。

そんな感じで、人間の脳は<概念>が既に存在している対象については、見ることをショートカットしちゃう機能が備わっているんじゃないかと思う。

もちろんそれはまあ自然なことだと思うのです。
毎日身の回りの全てを子細に観察してたら多分人間の精神はパンクしちゃうんだと思う。
だからそれは当たり前の防衛機能。人間が自分の精神を守る為の。

でも、そんな風にショートカット機能ばかりで生きていると、どんどん新しい発見のない人生になってゆく。
世界がどんどん予定調和だらけになっていってしまう。
だから時には意識して「物事を子細に観察してみる」時間を持つことはとても大切なような気がするのです。

もし、いきなり「椅子をデザインしなきゃいけない」立場に立たされたとしたら。
多分人は、それまでの100万倍くらいの精度で椅子を観察するようになると思うんですよね。
徹底的に椅子を観察するようになり、世の中にある椅子の多様さに驚く。
そして、一見何気ないような椅子のつくりやデザインに実はものすごく細かい創意工夫を発見して驚愕する…、かも知れない。

そんな風に「物事を子細に観察する」ことは世界のあれこれを再発見することに繋がる。
一度「椅子」という既に知っている意味を脇に置いて、ただ目の前にある対象を観察してみると、改めて「椅子」という存在の構造をそれまでより一段深いレベルで理解できる…、かも知れない。

そんな風に、意識的に「物事を子細に観察する」時間を持ってみることは、世界に、人生に「新たな発見」をもたらす可能性を持つかも知れない「豊かな時間」だという気がしています。

そしてこれは人間関係にも言えることのような気がします。

どういう人間関係でも、つきあいが長くなってくると「この人はこういう人」という認識ができてくる。
その認識は人間関係に安定とか安心をもたらします。「あれこれ説明しなくても通じる」みたいな。

でも、時にはそれが「相手を理解すること」の妨げになるかも知れない。

人は、ずーっと同じ考え・同じ行動で生きるとは限らない。
時を重ねて、少しずつ考えや行動が変わったり、あるいは突如何がしかの衝撃によって価値観ががらーんと変わったりもする。
時には新たなチャレンジをしてみたくなったり。

でもそういう時、親しい人の「貴方はこんな人」という認識が足枷になる可能性がある。

「貴方はこれこれこういう人だから、そんなことは向いてない」
「そんなの貴方らしくない」
「そんなこと言う・する人だとは思わなかった」

大抵の人は人生の中でこういうことを言われたことがあると思います。
付き合いが長くなると、どうしてもこういうことを言う・言われる可能性が出てくる。

だから本当は、付き合いが長い・親しい相手でも「私はこの人のことをまだまだ知らない」という謙虚な気持ちで相手を見つめてみることも大事だと思うのです。
今まで培ってきた関係性は大事にしつつ、でも新たなまっさらな気持ちで相手を観察してみる。
それができれば、相手の中に新たに生まれた思いとか考えとか希望とか夢とか対して「貴方らしくない」なんて言葉を投げつけずに済むかもしれない。
相手の中に生まれた新たな可能性を祝福できるかも知れない。

人を観察することとモノを観察することは必ずしも一致しないかも知れません。
でも、まっさらな気持ちで物事を子細に観察してみることは、やっぱり「他者を新たな気持ちで見つめる」ことに繋がりうると思うのです。
静かな心で、既に持っている対象への知識を一旦脇に置いて、ただ見つめる・観察してみる。
その手順は、対象が人でもモノでも、共通する点が沢山ある気がします。


ある程度の「予定調和」がなければ現代人は生きられない。
世界のあらゆる物事を子細に観察してたら、とてもじゃないけど時間が足りないし、多分精神がパンクする。
現代で「正常」となる精神状態は、物事の意味を知り、その「意味」から物事を見て対処・処理をすること。

でも、時にはそういう「物事に貼り付けられた意味」を取り払って、ただ対象を「見つめる・観察する」時間を持つこともとても大切なんじゃないか…、という気がしています。

一旦「物事に貼り付けられた意味」を取り払って、ただ目の前の存在を観察してみる。
そして改めてその存在の「意味」を考えてみる。
そうすると、その存在の意味や機能をより広く深いレベルで再認識できるかもしれない。

そんなことを繰り返して、人間は自分の世界認識をどんどん更新していったりするのかな…、などと思います。
予定調和ばかりの、発見の無い人生にしない為に。

<石写真を撮ることは、私にとって観察の訓練>

そして、私にとってはインスタグラムで毎日投稿している【日々の石写真】がまさしくその訓練の時間になっているような気がします。

毎日石を観察して、組み合わせや角度をあれこれ考えて試して、撮る。
そういう時間が、今の私にとってはとても大事です。

私の石写真は割と同じ石が頻出しますが、それが私にとってはまた有意義だったりするのです。
同じ石でも、光の状態・背景色・組み合わせる石、等によって全然印象が変わったりします。
そういうあれこれを日々観察して撮る、ということが私にとってとてもよい「観察の訓練」になっているということです。

この行為によって、何て言うか、自分なりの「観測ポイント」みたいなものを人生に構築しつつあるような気持ちです。
それは「こういう精神状態になれば私は人やモノを静かな心で見つめることができる」みたいな状態を自分の中に構築しつつあるような状況、ということです。

この【日々の石写真】をはじめる時にそういうことを期待したという訳ではないのですが、それはまるで思いがけない恩恵・恩寵のようにこの行為を通じて私のところに降ってきた…、という感じです。
(他にもいろいろ予想していなかった「この行為から生まれた新たな発見」があるのですが、それはおいおい別の記事に書きます)

<石は無意味な存在だからこそ、観察の対象として優秀>

私は石を観察して写真を撮っている訳ですが、石は特に「観察」のテーマとして優れている、という気がしています。
それはなんでかって言うと「無意味」だから。

石ってのはまあ、ただの石な訳です。人間によって用途や役割が限定されてない。

まあ実際は、装飾品に利用されてたり工業用に使われてたりする訳ですが、どちらかと言うと「意味や役割が限定されていないもの」だと思います。
日常での「実用性」が少ないってことですね。
装飾品にしても、興味が無い人は全くないだろうし、「生活必需品」のように役割がきっちりはっきりしているものではない訳です。
(私にとっては「なくなったらもう死ぬ」みたいなものですが。装飾品の世界は)

そんな風に「日常的役割」のようなものがあまりない石だからこそ、逆に観察の訓練の対象として優れている気がします。
だってそもそも「対象に貼り付けられている意味」が少ない訳ですから。
いきなり「ただただ対象を観察する」というところに行きやすい訳です。そもそも「先入観としての意味付」があまり無い存在ですから。

石ってある意味「色と形がそのままそこにある」みたいな感じなんですよね。
それってとても稀有な存在形態だと思うのです。

色は本来光であって物質ではない。
世の中にあるあらゆるものには大抵「形」がありますが、それは「用途に応じた形」をしてたりする訳ですよね。大抵は。

でも石の場合、まるで「色と形がただそこにぽこんとある」みたいな感じなのです。
意味付けされていない色と形がいきなりぽこんとそこにある。
だからこそ、いきなり徹底的に観察しやすい。
そんな気がしています。

<観察することは、時間を止める行為>

石を観察し、写真を撮る時間は、何て言うか「時間の流れが止まる」みたいな時間です。私にとって。
えーと「なんのこっちゃ」という感じかも知れませんが…

日常、我々人間は物事に貼り付けられた意味を瞬時に理解し、それをやりとりすることによって生活しているとも言える。
つまり、ひっきりなしに「意味のやりとり」をして精神を休めることなく生きているとも言える訳です。
それが当たり前すぎてもはや「意味のやりとりをしている」という意識さえないくらいに。

でも「意味無き石」を観察し続けていると、人間がいかに「意味」をやりとりして生きているかに気づく。
石を観察する時は、そういう「ひっきりなしに意味をやりとりする」精神状態から少し離れている。
そういう「日常の意識状態とはなんか少し違うかも」というありようが、私にとっては「時間の流れが止まる」という印象になるのかも知れません。

人間の精神は「意味のやりとり」をすることによって時間の流れを実感しているのかも知れません。
意味無き石を観察する時間は、その流れを止める行為。

…なーんて、ちょっと哲学的(?)なことを語ってしまっているでしょうか…。

とにかく、そんな感じで私にとって【日々の石写真】を撮ることは「観察の訓練」の時間になっているようです。
心静かに、目の前の対象(石)に向き合って、ただ観察する。
そしてその時に自分の心の中に浮かんでくるあれこれを言語化してコメントとして書く。

その営みは、大袈裟なようですが「世界をまっさらな新鮮な気持ちで見つめる」ことに繋がっていくような気がします。
その力は私の人生を拡大し、世界の彩を増やし、生命力を活性化する。

【日々の石写真】を続けてみて得られたことの1つは、そんな恩恵のようなものです。私にとって。


同じ石を3日連続で撮ってみました。背景色は微妙な光の差(お天気とか撮る時間によって光に差が出る)によってこうも印象が変わっちゃうのでした。
「印象が変わる」と思うのは私だけだったりするのかも知れませんが…
でもそこを見ようとすることがまた「観察の訓練」な訳です

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無限結晶M

仕事はデジタル系(BIエンジニア)、でもアナログなものづくり(ビーズアクセサリー、刺繍編み物等)が生き甲斐。 その世界を統合する為数学を勉強中。

石に信仰告白

アクセサリー作りで天然石に目覚めた石マニアです。 ユングは自分で石を積み上げて塔を作った時「石に信仰告白をしなければならなくなった」と言いました。 私もユングに倣い、ここで石に信仰告白します
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