馬場 真代 / Mayo BABA

旅する魂

馬場 真代 / Mayo BABA

旅する魂

最近の記事

ちっさいな、・・・私の器。でもいいの。

自分が人としてどうとかこうとか、まぁぼんやり考えたりしますけれど、突き詰めて考えるわけでもないんです。その理由は、すでに私は自分の人間としての小ささをちゃんと知っているので、もしや、もしかしたら気のせいでちゃんとした人なのでは・・・とうっかり妄想したりする余地もなく自分を見てしまっているので、そこはね、まぁ仕方がないという境地に至ってるんです。 世間に疲れた、生活に倦んだ女。格段に素晴らしくも、酷くもないけれど、自分を過大評価せず、駄目なところもたくさん知っていて、マァマァ

    • 心配をしない、心配しないでもらう。

      前提の話です。大切な家族や恋人、親友、などなどの他者をよく「心配」しますよね。困ったり、苦しんだり、悩んだり、辛い思いをしないように「心配」をします。ですが、その「心配」が厄介なのです。 信じて放っておくのが一番です。あなたの大切な人が困る、苦しむ、悩む、辛い思いをする可能性をどうか前提に「心配」しないでいてあげてもらいたいと思うのです。「心配」せずに「問題ない」「上手く行く」とただ信じてそのままにしておく、それが最良だと思います。私も自分の「心配」は同じ理由でしてもらいた

      • 二度あることは三度ある、が三度めがこないと実は気づかない。

        • 冗談が通じない、人びと。

          冗談が通じない人って、沢山います。笑 でも当人はそうは思っていません。多くの場合、そう、誰も自分が冗談が通じない人だなんて思っていないので面倒臭いのです。あ、冗談ってふざけたこと言ったり、芸人さんみたいなギャグかましたりだと思ってませんよね。それ違いますから。洒落がわからない無粋な人ということですからね。 冗談が通じない人は、ユーモアのない人とも言えます。頑なで真面目と言えば真面目。Humore(ユーモア)=洒脱、笑いのセンスが欠けています。 そして得てして、怒りっぽいので

        ちっさいな、・・・私の器。でもいいの。

          この世に不思議なことなど・・・。

          ないんだよ。←は陰陽師・中禅寺秋彦のセリフですが、秋分も過ぎでお彼岸ですね。間(あわい)の時をちょうど跨いだ感じです。日々の雑事に全て意味を見出せば、場合によっては必要以上の意味を求めたり、うっかりと大切な兆しを見落としたりとなります。肝要なのは、ちょうど良い塩梅のポイントを知ることですね。 で、何が不思議だったかと言うと、3回首をかしげる落語のような出来事が起きたと言うことなんですが。よくできた話とも言えますし、それぞれ関係ない出来事なのに、続けざまに起きたことで意味を持

          この世に不思議なことなど・・・。

          一事が万事。 でもそれは、それ。

          あくまでも人の感覚の話なので、断定的なことは言えないとは思いますが、人って一事が万事とよく言われて育ちましたが、本当にそうだなぁと感じます。これをただ観るようにできるのは、楽なことだなと感じます。 これは、気付かずに生きていれば別にそれまでの話で、だからどうだと開き直るケースがほとんどだと思います。品性の問題はそれが上品下品は主観に負うところも多いですし。あるいは、意識の広い狭いははっきりと手にとって説明できない領域です。他者の非道や我儘も、それは私の主観を通してみたもので

          一事が万事。 でもそれは、それ。

          みんな何かになろうとしてる。けど。

          私は、仕事を辞めてからこのことは頻繁に考えています。そうして、この自分を別の「何か」にするために皆試行錯誤をして苦労していると思います。いつから、こんなにあるがままの自分では駄目だと思い込んで来たのでしょうか。いつから、今の自分ではない「別の違う誰か」にならなくてはならないと努力をするようになったのでしょうか。 Unbecoming what I am not (アンビカミング・ホワット・アイ・アム・ノット)=私ではないものに成ってゆくのをやめる=私本来でないものに成らない

          みんな何かになろうとしてる。けど。

          伝えないことでしか伝わらないことがある。 至言ですね。

          伝えないことでしか伝わらないことがある。 至言ですね。

          うーん、バランスは難しい。

          頑張り屋さんと呼ばれて凹みます。笑 頑張っているわけじゃないんだけれど、要は抜けなく滞りなく振舞っていると「頑張っている」と多分褒められているのだろうとは思います。この「頑張っている」状態は嫌で、できるだけ、「頑張ったり」「頑固」だったりではなく緩やかに在りたいと望んではいますが、「緩やか」でいると、大ボケかましたりと今度はすっとぼけた人になります。 他者の評価なんて、気にすることないとは言いますが、他者の言葉に己の姿が映し出されていたりすることが多いので、そこはスルーはで

          うーん、バランスは難しい。

          正直いったらそりゃ面倒いときも。笑

          優しい人、面倒見のいい人、いい娘、いい友達、云々(笑)と思われたくてやってるわけでも、生きてるわけでもありません。当たり前でしょう?そんなに暇ではありません。だから、私に世話になったり、面倒見てもらったり親切にされたり、もっと言ったら依怙贔屓されたり、愛されちゃったりしてる人たち、「自己満足でやってるんでしょう」とか面倒くさいこと言わないでね。 いちいち、他者の歓心を引こうということを意識しても実はいないのです。もうこれはデフォで、私と言う自己と言うエゴの歓びの一部なだけな

          正直いったらそりゃ面倒いときも。笑

          大切な人なら、放っておいて。

          大切な人、好きな人、愛する人のことにはとかく干渉しがちですよね。そして何なら干渉されたいとすら思う人もいるかもしれません。 縛り縛られることで不思議と安心したような気持ちとなるのかも知れません。今なら、今だからこそよくわかります。 自分の元に、自分の側に、自分が養い、自分が守り、って自分の思い通りに管理したいと言う気持ちです。繋ぎ止めたいと言う束縛したいと言う気持ち。そうしていないと相手が消えて無くなってしまうんじゃないかと言う不安。これは決して埋まることのない欠乏感でしょ

          大切な人なら、放っておいて。

          生きていくことの対価。

          Growing pain(グロウイング・ペイン)=成長の痛み。人が成長していく際に通過儀礼として通って行く精神的成長に伴う痛みとされています。そう、人は子供時代から、思春期をへて、大人になって行くと、大雑把に言うと皆そうなります。みんな、それぞれの経験や体験を通じで、他者を、自分を知って行くわけです。この世界の成り立ちとか。 二十歳になる時、ハワイで暮らしていましたが、私は「1秒たりとも過去に戻りたくない。だってやっとの思いでここまでやってきたんだもん」と至極明確に思いまし

          生きていくことの対価。

          誠意のかけらもない。笑。

          他者を尊重し、敬意を持って接することが人間関係の基本の基と言われてます。なんだかみんなその気になって、自分を抑えて和気藹々とみたいなこと、組織にいればよくありますね。お為ごかしといえばそれまでですが。年功序列とか社歴の長い短いとか、日々社会に身を置けば晒されていると想像します。もちろん、これを超越した価値観を生きる人たちもいます。それがより自由であると思う人もいるかもしれません。 私が興味深く見るのは、その人の「誠意」だけです。面白いことに「誠意」はない人にはこれっぽっちも

          誠意のかけらもない。笑。

          孤独はデフォ。

          独生、独死、独去、独来。 仏教の教えです。人は一人で生まれ、一人で死んでゆく。個であることはもはや宿命なのですね、人間全員。致死率100%です。一匹狼が良いとか悪いとか、協調性がどうとかこうとか言う話ではなくて、そもそもデフォルトで個、孤独であるということをわかることが意味があることだなと感じています。 他者のことは、絶対にわかると言うことはないでしょう。だから分かりたいと切望するんですね。翻ると、他者が私をわかることも無いんです。寂しいと思う所以です。それがどうしても自分

          植物の力を拾いに。

          足腰が弱いことを自覚して鍛え直しています。地味に歩いたり、時間をとって山にハイキングなどしています。あえて森や自然の多いところに行く理由は他にもあって、実はエネルギー充填に森林や山道などに出かけています。 鬱蒼とした森や植物が背高く育っている野原は自然のエネルギーに満ちています。裸足になって放電したら、沢山エネルギーを自分にチャージします。まぁ、よく森林浴や自然の中で過ごすとストレス軽減なんて話は聞きますよね。私は具体的にエネルギーをもらいに行っていて、体感がはっきりとあり

          植物の力を拾いに。

          人間の出力。

          かねがね(でも時々)思っていたことがあります。 人の器って大きさで語られますよね?でもそれは受容力だったり寛容さだったり包容力だったりと、「受け止める」力であるように思います。受け取る力と同じように、出してゆく力、発信する力、与えてゆく力も人には備わっているのではと思います。 そして、後者は前者より小さいのが常で、無意識に与えるより受け取ることが多いと感じています。循環の話はお金の話でもしていますが、法則というものは同じなので、より人生から受け取る人は、より大きく出して行っ