個人的な安生

久しぶりに書く。日記を毎日書きたいと言っていましたね。あれは嘘でしたね。急に暑くなり、日中は30℃を超え、肉まんの季節は終わりました。ありがとう もっちりジューシー肉まん、こんにちは フローズンパーティー。

今日から連休。ひさしぶりのおやすみ。うれしい。3月末から本日まで、なんというかあまりちゃんと意識がなかった。始発で職場に向かい、終電で帰る(あるいは、帰って別の作業をする)。寝る。服だけは丁寧に着て、マスクを洗う。寝ていても起きているようだったし、起きていたが寝ているだけなのかもしれなかった。休みもあったけれど、結局は電話かメールですこしずつ案件を進めるしかなく、寝て、起きて、起きてから「これってなんだっけ」「この寝転がっているわたしは、いったいなんだっけ」「このままずっと動かず寝ていたらどうなるのか」「誰かに責められるんだろうか、それがどうしたっていうのだろうか」と明け方に目を開けながら寝ているふりをしていた。わたしはわたしだったんだろうか。肉体という器をあまりにも雑に扱っていたので、魂がかわいそう。今日、散歩にいこう~とズボンを履こうとしたらずり落ちるのでびっくりして体重を量ったら、5キロ減だった。うそやろと思って確認しましたが、2月とくらべて5キロ…わたしの5キロちゃん…生後2~3か月くらいの赤ちゃんって5キロくらいだったかな…でもまあ年末年始で増えたぶんもあるので…この連休はたくさん食べたい。昨日は友達と電話をして眠って今日は朝からのんびりできたので、ほんとうにうれしい。なにもしなくていい。

この程度で摩耗したような雰囲気をかもしだしてしまうわたしがいる一方、きっと、もっと、過酷なところに立っているひともいるのだろうなと思う。医療関係だとか、わたしの知らないところで働くひと、家が安心できる環境ではないひと、想像もできないような、不安定な足場に立たざるをえないひと。会ったこともないひと。思い浮かべて「だらだらしており、本当にすみません」とうしろめたさを感じながら珈琲を飲んでいる。考えてもどうしようもないが、どうしても考えてしまう。ただ、わたしの魂をなぐさめられるのはわたしなので、それはそれとしておいしい珈琲も飲みますしそれに喜びを感じます。それとこれは別で、同時に存在しながら抱えておける感情と状態なのです。ということにしており、自分を納得させている。最終的にまるで思い込みか呪文のように、最後はけっきょく自分の内部に、自分に帰結するのだろうか。一時期、わたしのことはわたしが決めるしコントロールもしているのだから、わたしは永遠に傷つかず「最強」のままでいられるのではと考えていた。そんなことはなかったが。わたしはわたしをコントロールできるが、なんのためにコントロールするのか、どのようなかたちで自分を形状記憶しておきたいのか、あるいはどんなことで傷つくのか、どんな傷に敏感でいたいのかってところなんです。おわかりですか、わたし。己を定めるには、外界と他者が必要で、「他者と関わる自分」は自分のためにいて、どんな自分でいたいのかの視点におそらく他者は不可欠であり、他者にとっての自分と自分にとっての自分の境をふらふらとしながら(ただほんとうの「他者」は自分のなかに存在していないんですよね。こわ。。。)おそるおそる自分を微修正しつつ這って進むのがお似合いだよ、わたし。立ち上がれなくて二足歩行ができるひとたちに追い抜かれながら自分の愚鈍さに失望しならでも腕が二本あってよかった、進める気力があってよかった、とそこだけは前向きに生きていける感情がありよかったね。思い込みと呪文は得意なんだ任せてくれ。

散歩したら、けっこうたくさんの人が歩いており、鴨川のほとりでは皆さん猛烈に走っていた。ひとりひとりが生きていて、それぞれ生活しており、今日たまたま鴨川でこうしてすれ違う。すごくない?という考えに至り、いまとってもナイーブです。とにかく、全人類ハッピーになってほしい、不幸せなひとがいると、そのひとのことを考えてわたしがしんどいからです。わたしが優しいわけではなくただひたすらに自分のためでしかない個人的で自分勝手で軽薄な思い付きしかできないまま、でもきっと今日はたくさん歩いたのできっとよく眠れます。

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