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PULP FICTIONを観た

一昨日、あの有名なタランティーノの作品である「パルプ・フィクション」を観に行った。どうやら、「タランティーノ・映画に愛された男」という彼の自伝的ドキュメンタリー映画の公開記念で2週間だけ再上映されることになったらしい。このパルプ・フィクションという映画は酷評されているらしいので前々から気になっていた。内容がない、訳が分からない、特に伝えたいことは無いが単純な事を複雑に描写している、など。
そして遂に、その映画を自らの足を運んで確かめる時がやって来た。映画館でこの映画を観ることができたのは非常に嬉しかった。上映終了後の率直な感想は、(なんだか面白かった) だった。別に一般論への逆張りとかではない。観る前に酷評の噂を耳にしていたものだから、てっきり話の辻褄が合わなかったり、謎の伏線が回収されぬまま終わったりするのかと思っていたらそうではなかった。時系列がバラバラながら話の筋が通っていたので満足に楽しむことができた。パルプ・フィクションのラストシーンは時系列を正しく整理すると最初のシーンに相当するのだが、好きな食べ物は最後まで置いておくみたいな感覚があり、映画でそれをするのか、と感銘を受けた。

おそらく、パルプ・フィクションと聞くと多くの人があのセクシーな女優、ユマ・サーマンを思い浮かべるであろう。しかし、彼女の出演シーンは映画全体で観ると非常に少なかった。にも関わらず、映画のポスターが彼女のソロショットイケイケ決めポーズなのは非常に背信的である。これもつまり、パルプ、柔らかく湿った形のない物質の塊へのオマージュなのだろうか。

この映画はPulpという単語の2つの定義がスクリーンに映し出されて始まる。
Pulp: (a)a soft, moist, shapeless mass of matter
          (b)a magazine or book containing lurid subject matter and being characteristically printed on rough, unfinished paper.
そして、主人公のヴィンセントがトイレに行く度に悲劇が起こる。トイレットペーパーの原料であるパルプが関係しているのか?とも感じた。単純な言葉遊びであるが、それを自然に映画の重要なカットに取り入れるのは面白い。全ての登場人物がある場面で巡り合い、この映画の世界自体が荒れた、粗い印刷物に使われる質の悪い紙のようであり、そこに生ける扇情的な物語と登場人物を認識することができた。ヴィンセントはそのような世界、映画でいうマフィアの世界に溺れて死んでしまった一人であるのに対し、ジュールスはこの世界から唯一脱却を測った勇敢な一人であるといえるだろう。

なんとなく、先日読んだ伊坂幸太郎のラッシュライフに似ているように感じた。このラッシュライフも同じようにLushという単語の定義付けから始まり、全ての登場人物がある1点で遭遇したり、繋がっていたりする。内容が似ているというよりは構成が似ているのだ。おそらく、映画好きの伊坂幸太郎氏がパルプ・フィクションをオマージュしたのであろう。当たり前ではあるが、映画と文学は繋がっているということを体感できた。
最後に。この映画は内容よりも構成が素晴らしいのではないか、と感じた。故に内容への酷評が絶えないのであろう。個人的に、この映画の主題は「世界からの脱却」だと思っている。

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