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対談 都築潤×南伸坊×伊野孝行    第4回「その衝撃を”ヘタうま”という」

 子どもの頃からイラストファンだった都築潤さん。現在は大学で「イラストレーション史」を教えたりもしている。我々は歴史に何を学ぶのだろう。…それはともかく、都築さんが予備校生の時、今までの価値観をドンガラガッシャーン!と崩壊させる出会いがありました。あの時の動揺がふたたび蘇ります。(構成:伊野)


和田誠さんが発明した商売じゃないですか、それは。


伊野 都築さんは、中学3年生の頃から、自分はイラストファンだっておっしゃいますけど、絵を見て、これがアートで、これがマンガで、これがイラストだっていうような区別を当時からしてたんですか?

都築 イラストレーターは『年鑑日本のイラストレーション』に載ってる人って感じで見てましたね。あと「講談社フェーマススクールズ」というのに入ってたんですよ。

 へえ、そうなの。「講談社フェーマススクールズ」には橋本治も入ってたね。

都築 あ、橋本治さんも通信教育を?いっしょですね(笑)。
資料でアメリカのイラストレーターが載ってて。ベン・シャーンも、ボブ・ピークも、ノーマン・ロックウェルも。で『年鑑日本のイラストレーション』を見ると、「あ、これボブ・ピークじゃん」「ベン・シャーンやけに多いじゃん」て思ってたんですよ(笑)。

 もう、ばっかりですよ(笑)。

伊野 その頃から冷静に見てたんですね。

都築 冷静ていうか、こういう風にマネするんだなって思ってたんです。

 それなん年くらいのこと?

都築 1975年くらいですかね。映画が好きだったんで『ロードショー』ていう専門誌を定期購読してたんです。そこで映画のポスターを描いてる野口久光とか、やっぱりボブ・ピークですね。『マイ・フェア・レディ』のポスターとか、そういうのを見て、アメリカン・イラストレーションって筆さばきで見せるのがかっこいいと思ってたんです。リアルなんだけど筆致が激しいのが。あとマーカーテクニックですね、自動車をさーっとマーカーで描く。フランクリン・マクマホンって人もペン画でさーっと。
ベン・シャーンだけはちょっと変わってましたね。

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■ボブ・ピークの『マイ・フェア・レディ』と『HAIR』のポスター。

[ 都築 註:『マイ・フェア・レディ』は今となってはこれ見よがしの筆致が、昔ほど好きになれません。この人はいろんな描き方をしてて、どれが代表作とは言えない感じがありますね。]

 ベン・シャーンはヘタうまだからね。ベン・シャーンが流行ってたのはぼくの高校生くらいの時だけど。みんなネタもとだと思って見てる感じでしょ。いつもアメリカのデザインが新しくて、そっから持ってくるみたいなね。

都築 やっぱりアメリカですよね。小林泰彦さんにインタビューしたときに「小林さんにとってイラストレーションってなんですか?」って聞いたら、ちょっと考えて「……アメリカかなぁ」っておっしゃったんですよね。

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■小林泰彦さんが語る動画が見れます→〈「その話には続きがある」小林泰彦×石川次郎〉。小林さんは自分の「絵と文」で見せるスタイルの元にあるものとして木村荘八と今和次郎+吉田謙吉をあげておられます。


 とにかくアメリカのものがカッコよかった時代だよね。同時並行してヨーロッパのものも入ってはいたんだけど。

都築 ヨーロッパはポスター作家みたいなイメージで入って来てましたね。日本でイラストレーションという仕事の概念を作ったのは、やっぱり和田誠さんたちですね。イラストレーターという仕事もなかったし。

伊野 和田さんたちがイラストレーターの概念を作るときに参考にした人ってのはあったんでしょうか。

 和田さんは「ポスターを描く人」になりたいって思ったんだよね。

伊野 和田誠さん、宇野亜喜良さん、横尾忠則さんみたいなイラストレーターの振る舞いというか、みんな多才で絵だけ描いてるだけじゃない。ああいうタイプの人はアメリカにいるんですか。

 アメリカのイラストレーターはそうじゃないと思うね。でもプッシュピン・スタジオの人たちは、いわゆるそれまでのイラストレーターとは違うものを作り出してたから、その辺に影響は受けたかもしれないね。アメリカだけどその中でもちょっと変わった人たち。それは雑誌文化との関わりもあると思いますね。

都築 おそらくそうだと思いますね。

伊野 和田さんは文章も書くし、編集もするし、絵も描くし、映画も撮るし、ショーの演出もするから、そこを理想にすると、自分はダメだなと思っちゃうんですけど。

都築 和田誠さんが発明した商売じゃないですか、それは(笑)。

 あんな風にできないよね(笑)。でも商売としてのイラストレーションからはみ出てくるのが面白いんだよね。実際、エディトリアルとか芝居のポスターとかってもうかる商売じゃないからね。

都築 おいしいわけじゃないですよ。タダで描いてますもんね(笑)。

 だけどそこで面白いものが出来ているのは確かなんだよね。和田さんたちはお金関係ない。

都築 自分もそうだったんですけど、絵は好きなんだけど自分は描けない、漫画は読むけど自分は描けない、っていう人たちがものすごくいたと思うんですよね。そういう時に和田さんたちによって「イラストレーション」っていうのが出て来た時に、みんなパッと飛びつく。そんなイメージでしたね。これだったら自分にも出来るんじゃないかって。

 空間デザイナーが流行ったみたいに、その前にイラストレーターが流行ったんですよ。そのあとにコピーライターが流行った。空間デザイナーはそのあと。イラストレーターもコピーライターも広告の世界ではすでに活躍してたんだけど、エディトリアルに参入して、それで一般の人にも知られるようになった。

とにかくヒドいとしか形容できない‼︎


 湯村(輝彦)さんのことはどう思ってたの?

都築 一番最初に見たときは「ヒドいな」って思いましたね。とにかく(笑)

伊野 あははは。ヒドいってどういうニュアンスですか?

都築 とにかくヒドいとしか形容できない!

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伊野 ヒドいていう言葉の中に、面白いなっていう感情も入ってるの?

都築 いや、全然ないっすよ!

 あはははは、可笑しい!何を見たの最初に?

都築 『テリー百% 』のポスターだったかな。予備校の時だったと思うんですよね。

伊野 予備校に行ってるということはかなり美術的な教養がついてるってことですもんね。

都築 そうですよ、なのにヒドいと思った。こんな下品で汚い絵が世の中にあるんだ(笑)。しかも印刷物になってるっていうのが。

 あははは!面白いな~。

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■『湯村輝彦ヒットパレード』より。

都築 実はね、印刷物になってるっていうのが、後で響いてくるんですよ。しばらくして友達が『情熱のペンギンごはん』を持ってきて、それを見てたら笑いが止まんなくなって(笑)。ヒドイな~って言いながら笑ってたんですよ。一枚絵で見たときはただヒドいとしか思わなかったけど。出だしがみんな一緒じゃないですか。家族でディナーかなんか食べてて、こうこうこういう理由でこうしなければいけない、お父さんのいうこと聞きなさいって言って、殴られたりしてるわけ、子どもが。そっから話が展開するんだけど。
とにかくそのヒドい絵がね、「この絵じゃないとこの話は成立しないな」って思うようになって。

 あ~ハイハイ。

伊野 『情熱のペンギンごはん』の担当者が伸坊さんなわけですけどね(笑)

都築 で、よく覚えてるんですけど予備校に「漫画アクション」の別冊に載ってた大友克洋の『fire-ball』をホチキスどめして持ってきた友達がいて、昨日、『情熱のペンギンごはん』を見て笑ってたのが、今日『fire-ball』見て、「うぉおお!なんだこれは!」ってなったんですよ(笑)。

 その頃だったね。

都築 そうすると、自分が持ってる価値観が全部ウソで固められてる気がして。世の中にこんないろんな絵があって、こっちはうまいので感動して、こっちはへたなので感動して、なんでだろうって(笑)。

伊野 いい話ですね~。

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■ネットから拝借してきた、「漫画アクション」掲載の大友克洋『fire-ball』。

そのときはもう僕、免疫できてたから「コイツらわかってないな」って(笑)

都築 自分の中で絵を見る考え方がガラッと変わった気がしますね。永井博さんがジャケットを描いた大瀧詠一『A LONG VACATION』のカセットを友達と回し聴きしたりとかね。
そうすると、イラスト、漫画、ゲームも含めて日本中のビジュアルが今とんでもないことになってて、一つの流行りじゃなくなるんじゃないかって、その時強烈に思ったんですよ。浪人生だったけど、その後の自分にとって大きかったですね。逆にコレに向かって進むんじゃダメなんだって感じました。

伊野 すごいっすね。

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■メルカリでみつけた大瀧詠一『A LONG VACATION』のカセット。この名盤(名画)が紹介されるときはいつもLPジャケットですが、カセットはこんななのです。

都築 で、大学に入ってから広告デザイン会社にバイトに行くんだけど、そこでデザイナー達が「湯村輝彦っていうイラストレーター、ヒドいよねぇ、あんな汚い絵…」ってみんなが言ってんですよ(笑)。そのときはもう僕、免疫できてたから「コイツらわかってないな」って(笑)。こういう感じだったよ、確かに自分もって(笑)。

伊野 へ~、最初そういう風に湯村さんに対する拒否反応があったって、知らなかったです。

都築 そう、そう、その衝撃が「ヘタうま」だと思ってるんですよ。
中ザワヒデキとも話したんだけど、狭義のヘタうまと広義のヘタうまがあって、中ザワさんは、たとえば大正時代の萬鉄五郎とかもヘタうまって言うのね。椹木野衣さんていう美術評論家はピカソはヘタうまだと言うわけ。僕もそれはわかるんだけど、ヘタうまっていう言葉が一般的に使われてなかったから、あまりにも湯村輝彦がヘタとしか思えなかったんですよ。ヘタウマじゃないんですよ、ヘタなの、ほんとーに!(笑)。

伊野 「ヘタうま」って言葉を流行らせたのが湯村さんだから、それ以前に呼び名はないですもんね。やっとわかった。都築さんはヘタうま=湯村輝彦だって主張してる理由が。

 ショックだったんだね(笑)。

都築 ヘタうまということを狭く狭く考えていくと湯村輝彦以外にないんですよ。

伊野 でも、都築さんがその後イラストレーターになって、ヘタな絵を描いてるじゃないですか。

都築 で、湯村さんに会った時にも「都築だってヘタうまだろ」って言われたんだけど、畏れ多くて。「あなたの言ってるヘタうまとは違います」って思ったんだけど(笑)。でも一回湯村さんみたいに描こうと思って一生懸命ヘタに描いたらボツになったんですよ(笑)。

 あはははは。

都築 その時思ったんですけど、なんで湯村さんのはOKで自分のはボツになったんだろうと。

伊野 それは何ですかね?

都築 あのね、僕が思うのはデザインですよ。

 そうそう、湯村さんはものすごくデザインうまいの。

都築 デザイナーとイラストレーターをひとりの人がやるから可能で、しかも僕はモダンデザインだと思うんですよ、非常に。あの絵を広告に載せるってことは今までに全くなかったことなの。だからイラストだけ見たら、絶対使えないって、あまりにも(笑)。実際には湯村さんの絵は広告に使われてるんですけど、それは「ヘタうま」から一定の距離を置いてるように見えるんですよね。

 あのね、湯村さんはね、本人は言われるの嫌だと思うんだけど、最初すっごくおとなしい、かわいい絵を描いてたんですよ色も中間色のきれいな。ま、和田さんの絵だね、ものすごく影響を受けてるから。あるときからガラッと変わった。自信持ったんです。で、色も変わった。もともと色感むちゃくちゃいいところに自信持って強烈な色使うようになる。この辺に赤ほしいなあって思うと、バンて赤入れちゃうんだ。そこにりんごがあるとかユデダコがいるとかじゃない。赤が欲しいからいれる。それはデザイナーだからなんだよ。

都築 なるほどねー。

 そうすると絵がしまって作品として成立する。そのノウハウを全部わかってやったのが安西水丸さんですよ。水丸さんはデザイナーやったりいろんなことやってる間に、コレだと思って、もうちょっとおとなしくした(笑)。

都築 湯村さんが動のヘタうまで、水丸さんが静のヘタうまだと思ってます。

【オマケ】『情熱のペンギンごはん』担当編集者だった南伸坊さんによる「スーパースター・湯村輝彦論」(亜紀書房のWEBページ)

(つづく)

プロフィール

都築潤 
1962年生まれ。武蔵野美術大学芸能デザイン科卒業。四谷イメージフォーラム中退。日本グラフィック展、日本イラストレーション展、ザ・チョイス年度賞、年鑑日本のイラストレーション、毎日広告賞、 TIAA、カンヌ国際広告祭、アジアパシフィック広告祭、ワンショウインタラクティブ他で受賞。アドバタイジング、インタラクティブ、エディトリアル等、種々のデザイン分野でイラストレーターとして活動。http://www.jti.ne.jp/

南伸坊
1947年東京生まれ。東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校・木村恒久教場、赤瀬川原平教場に学ぶ。『ガロ』の編集長を経てフリー。イラストレーター、装丁デザイナー、エッセイスト。著書に『のんき図画』『装丁/南伸坊』『本人の人々』『笑う茶碗』『狸の夫婦』『私のイラストレーション史』など。https://www.tis-home.com/minami-shinbo/

伊野孝行
1971年三重県津市生まれ。東洋大学卒業。セツ・モードセミナー研究科卒業。第44回講談社出版文化賞、第53回 高橋五山賞。著書に『ゴッホ』『こっけい以外に人間の美しさはない』『画家の肖像』がある。Eテレの『昔話法廷』やアニメ『オトナの一休さん』の絵を担当。http://www.inocchi.net/


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