〈読書感想文〉山崎ナオコーラ『リボンの男』/物語を取り戻す言葉。私たちを分断するストーリーはもういらない。

「韓国・フェミニズム・日本」特集がたいへん話題の『文藝』秋季号ですが、山崎ナオコーラさんの『リボンの男』をどう捉えるか、共感したりモヤモヤしたり納得したりしたので、読書感想文書いてみました。

この小説では「時給マイナス」であることをどこか卑屈に捉えていた主夫の妹子が、子どもとの時間のなかで世界を細分化する「小さな生活」の豊かさに触れ、それを肯定していく。男性が育休を取るのも難しい社会で男女が逆転した家族を描くことは、ジェンダーロールからの解放を感じさせるものだし、妹子が主夫をやるなかで得た数々の気づきには強いシンパシーを感じました。主婦/夫の日常はすごく創造的なんだけど、外で働く人にはわかりづらい。物理的に生活の場が違うから見えないんです。平日昼間の郊外住宅地と都心のオフィス街には驚くほど断絶がある。

テレビや雑誌なんかの「主婦ストーリー」の多くは都心のオフィス街側で生まれてきました。彼らは自分たちからは見えない主婦の生活を、ママ友同士のマウンティングや専業主婦のドロ沼不倫みたいなスキャンダラスなストーリーで塗りつぶしてきた。その結果、私たちはママ友(という言葉もあんまり使いたくないけど)に警戒したり、公園デビューにいらん気をつかったり。でも実際仲良くなっちゃえば、友だちなんですよね。近所に友だちできるって最高じゃないですか。ママ友まったくこわくないです。会社や組織のほうがよっぽどマウンティングしあうし、ハラスメントの温床でした。

仕事を辞めて専業主夫になった妹子も、主婦たちの多様さに触れ、新たな役割のやりがいに気づいていきます。

“妹子はそれまで、主婦に対し、「保守的な考えを持ち、本音を隠し、個性を殺して集団を作る人たち」と画一的なイメージを持ってしまっていた。だが、実際には、いろんな人がいる”※1
“たぶん、みどりは仕事をしながら、広い世界へ向かっている。仕事をする多くの大人が、世界を広げる努力をしているような気がする。でも、小さい世界へ向かうことでも人間は成長すると考えるならば、その方向性を示す大人も必要だろう。もしかしたら、自分にその役割があるのではないか?”※1

この小説は不当に貶められた主婦のストーリーを主夫の目を通して、肯定し直すものだと読むこともできるんです。

でもそれならなんで主婦じゃなくて主夫なのか。主婦の不当なストーリーを肯定的なものとして取り戻すために、男性の視点に立つ必要があるのだとしたら、こんなに悔しいことはない。

この小説は家父長制社会でなおかつ新自由主義社会である日本を舞台に、男性が主夫をやることに意義があるのかもしれません。妹子が男性的役割から逸脱した自分を肯定するストーリーですから。

一方妻のみどりは結婚前も産後も、ずっと超然としており、ほとんど変化が見られません。書かれていないことを予想してもしかたないけれど、現実にはこの場合、外部から糾弾されるのは妹子ではなくみどりの方かもしれない。もともと男性の育児参加は賞賛されるのに女性が仕事をすると糾弾されるような社会なんです。今は少しずつ変わっていっているけれど、みどりは仕事や家計を支えるプレッシャーを抱えながら、子育てもしなければならない。私にはみどりが女性的役割を逸脱する以前に妹子からスライドした男性的役割を重ねて背負っているみたいに見えてしまった。

フェミニズムは女性が女性であるがゆえに被る差別や暴力とたたかう運動ですが、同時にあらゆる人があらゆる属性から自由になるための思想でもある。そうでなければ女性が解放されることはあり得ない。女性だけが解放される社会なんて(あり得ないですが)地獄です。

この小説では子育てが家庭の中だけで完結しています。妹子は近所のママや老人と世間話はするけれど、それ以上の付き合いはなさそう。タロウは幼稚園に通っているけど、あくまで教育の場として少し登場するだけ。結局、どちらかがつねに親をやらなければならない状況なんです。その状況で男女が逆転したところで、役割に追い込まれることには変わらない。

女が外で働いて、男が子育てしたっていい。それはもちろんそうです。経済力がなくても、生産性がなくても、小さな生活のすべてが肯定されなくてはいけない。ほんとその通りだと思う。けれど役割を入れ替えたところで、家父長制社会の抑圧の構造は変わりません。ジェンダーロールを逆転したからって、私たちが自由になれるわけじゃない。だから私はこの小説に物足りなさを感じてしまった。それなら、主婦の目で主婦の日常を肯定してほしいと思った。

でもだからこそ、『リボンの男』はリアリズムの小説だということもできます。なぜなら、ある日とつぜん自由な世界が到来するわけじゃないから。ひとつひとつ解体するしかないんです。矛盾やモヤモヤを抱えながらほどいていくしかない。フェミニズムの運動はこれまでもそうやって前に進んできたし、これからも続いていく。ここには変化するフェミニズムの現在を反映した、家族の小さなたたかいが書いてある。そう考えると、主婦であっても、主夫であっても、それは私たちの言葉なんだと思えてくるのです。

この小説を読む前に山内マリコさんの『あのこは貴族』を読んだのですが、こちらは家父長制と階級が強く結びついて温存されている日本社会で、一見正反対の女性が「女の義理」をたてて、自由になっていくストーリーです。

シスターフッドが大きなテーマとなっていますが、外の世界へ飛び出した女性たちと主婦の友人たちとは分断されたまま話が閉じられます。小説にすべてのことが書いてあるわけじゃないし、もしかして書いてないところでまた仲良くやってるのかもしれません。ただ離婚した元夫と和解するぐらいなら、そっちを読みたかったな、と笑。

“「世の中にはね、女同士を分断する価値観みたいなものが、あまりにも普通にまかり通ってて、しかも実は、誰よりも女の子自身が、そういう考え方に染まっちゃってるの。だから女の敵は女だって、みんな訳知り顔で言ったりするんだよ。若い女の子とおばさんは、分断されてる。専業主婦と働く女性は、対立するように仕向けられる。ママ友は怖いぞーって、子供産んでもいないのに脅かされる。嫁と姑は絶対に仲が悪いってことになってる。そうじゃない例だってあるはずなのに。男の人はみんな無意識に、女を分断するようなことばかり言う」”※2
“「そういうのが主流な世界で、女同士の義理なんて、それってすごく、ファンタジーな気がする。けど……」”※2

けど……それはほんとうにファンタジーなのでしょうか。お茶の間の「主婦ストーリー」は、まるで全体を象徴するイメージとなって肥大し、無意識に根付いている。内なるミソジニーをやっつけて、私たちを分断するストーリーを拒絶しなくちゃいけない。そのためにも新しいママ友や新しいシュフの物語が必要で、山崎ナオコーラさんや山内マリコさんの小説には私たちが物語を取り戻すための言葉であふれていました。

※1 山崎ナオコーラ『リボンの男』文藝2019秋季号より
※2 山内マリコ『あのこは貴族』集英社文庫より

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