必要最低限の文才

文才が欲しい。

平成が終わる頃、
今年で31になる中年女は思った。
中年女には文才がない。

気がついてしまった。この年齢になると、病院の問診票や、上司への取次電話の内容をメモした付箋など、「必要最低限の文才」が求められることを。会社勤めとて、何回か転職はしたが、それなりに経験を積んでいるにもかかわらず、相変わらず酷い文章しか書けない。

原因はあった。
中年女は考えることをやめていた。
新卒で入社した職場で、中年女は中年になる前から考えることを辞めたのである。

言葉尻を捉えて揚げ足取りをしてくる上司から、早く子供を産まないと卵子が古くなるという上司から、後輩に「殺す」と凄む先輩から、「私たちの給与は浄財であり労働の対価ではない」とする組織から、その全てから考えることを辞めたのだ。

考えることは痛みを伴うから辞めたのである。何かあっても、その出来事や言葉の意味を考えなければ痛まないのである。

中年女はそうしているうちに、起こっている事象に対しての的確な表現を言葉にすることができなくなった。言葉にできなければ、文章にすることなど尚更できないことである。

中年女は失われた文才を取り戻そうと頑張っている。それも、必要最低限の。
中年女はこうしてnoteに書き出した次第である。どうか応援して欲しい。


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