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推しが最高だと死んでしまうオタクをやめたい

記事の扱うテーマの特性上、「死」というワードが頻繁にでてきます。
ワード自体見たくないという方や気分を害する可能性がある場合は、
ここで引き返してYouTube上に存在する楽園ことSKZ CODEをご覧ください。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL2HLJ87twWI1DhyFxYbQRB4_JLKPIYXli


どうして推しが最高だと「死」という言葉を口にしてしまうのだろう?

最近の傾向としてちょくちょくTwitterなどでも推しが最高な時は、
「死ぬ」「しんどい」「殺して」等ではなく
「生きる」「しあわせ」「生き返った」と言おうという動きが見受けられる。

時には令和のオタクはハッピー前向き思考で行こう、といったような、
平成から令和への意識のアップデートの一つとして
例に出されていることもあって、
そうだよな~そっちのが良いに決まってるんだよな本当はな~、
と思いつつも、なかなかTL上に墓を建てるのを止められずにいた。

正直、平成と令和に限らず、いつオタクとしての生を受けたかに関わらず、
使う人は使うし、使わない人は使わないと思うけれど、
一旦その基準で考えると私はガチガチ平成のオタクである。

モバスペをさまよい、mixiと遊んで暮して来た。
ファンサイトのキリ番には人一倍敏感であった。

なので推しが最高な時には「死ぬ!」と、
夜神月の形相で叫んできたわけだけど、
前述の流れをちょくちょく目にするようになり、
「この感覚は古いのだろうか…?」という気持ちになってきてしまった。

しかし、親の顔よりみた青い鳥がさえずる場所では、
やはり推しが最高だと死んでしまうオタクは、
私も含めまだまだ元気に生息しているよう。

そこで、冒頭の疑問に戻る。
実はこの記事はここまでが、去年の夏頃に書いていたもの。
疑問を抱いてから途中まで書いてなんとなく放置していた。

ところが最近、またこの疑問について考える機会が不意に訪れた。

上記のヒョニビニライブ(04:25~)でヒョンジンがふと

「面白くて死ぬかと思った!」と口にしたとき、
チャンビンさんが「ヒョンジナ~?面白くて死ぬかと思ったの?」と返す。

それに対して「面白くて生きるかと思った!」とすぐ言い直すヒョンジン。
(かわいすぎやしないか?????????????)

些細なやり取りではあるけれど、ただ言ったことを繰り返しただけで
訂正箇所を把握し言い直す様子を見ていると、恐らくこのやりとりは
今回が初めてではないのだろうなと察することができる。

恐らくそこには「例えポジティブな文脈であったとしても
軽々しく死を口にするべきではない」という考えが根底にあるから、

大好きな可愛い弟であっても、というよりも
大好きな可愛い弟だからこそ口にしてほしくなくて
優しく訂正を促したんだろうなというチャンビンさんと、

はっきりと注意されなくても察して
すぐに言い直すヒョンジン(素直でいい子…うちゅ…泣)

そんな2人の言葉に対する誠実なやりとりがとても印象的で、感銘を受けた。
ちょっと反省もした。彼らより長く生きているのに、
自分の放つ言葉に対して真摯に向き合っていなかったことに。

そこで自分の中に浮かんできた疑問に向き合おうと改めて思い、
今これを書くに至っている。

私が「死ぬ」「殺して」「死にたい」などと呟く時は、
99%推しが最高のパフォーマンスや好みのビジュアルなどを見せてくれた時。

つまり、本来であればオタクとして「幸せ」で
「生きている喜び」を感じる瞬間のはず。

もちろん私もそれを強く感じてはいるけれど、
同時に、推しという「光」によって焼き尽くされるような感覚がある。

そもそもが自分自身を闇のオタクであると捉えているので、
推しという光が強すぎるとウワアアアアアアアアアアアアアと思考回路が焼ききれ、
そのまま自分という存在が浄化されすぎてしまう気がする。

今まで「画面越し」という安寧の中にいた闇の人格が地中に引きずり出され、
覗き込んだスマートフォンが虫眼鏡に代わり、
レーザー光線の破壊力を持った直射日光が
虫けらのような自分を焼き尽くしてしまうのである。

「ハリーポッターと賢者の石」映画版で、
母の無償の愛に守られたハリーに闇の魔術に浸った存在が
直接触れることすらできず、触れようとすれば火傷を負い、
最終的には人の形を保てぬ程ぼろぼろに崩れ去ってしまったように。

先程、自分でも半ば無意識に「浄化されすぎてしまう」と書いたけれど、
つまり私が口にする「死にたい」とは、推しという光に対する
反対呪文のようなものなのではないか?と思った。

「死」に関連する言葉は、ある意味では美しいけれど、
基本的には“良くないことと”とされている。

人というのは当然生きたい(生きていたい)に決まっていて、
死は忌まわしく避けるべきことであるというのが
世間一般的な「死」の扱いだから。

歓迎し、享受してはいけないもので
恐れ、出来る限り抗うことが前提、という世界で生きている。

当然、「死ぬ」「死にたい」「殺して」などという
死を表す言葉、死を望むような言葉は、
通常、"言ってはいけないこと"で
口にすることすら憚られる。

だからこそ、そうした忌むべき言葉を口にすることで、
推しと距離をとり、暗い地中に潜り、
浄化されすぎないようにしているのかもしれない。

違うんです!
私はあなたのような光の住人ではないのです!地獄の化け物です!
私がこんな良いものを見て良い訳がない!救われてしまう!
という無意識の顕現、化け物としての意思表示、防衛本能が暴走した結果
「死ぬ」「死にたい」「殺して」なのではないだろうか。

これは恐らく各々の根底にある死生観も多少なりとも反映しているのだろうけど、
少なくとも推し関連で、かつポジティブな文脈で使用するに限り、
私の放つ「死」はこのような意味合いを含んでいるのだと思う。

(いや自分の意味合いは全然違う、という人の話も聞いてみたい)

それが解ったところで、これからどうするかという話だが、
慣れというものは怖いもので反省した今ですら、
意識するよりも先に口をついて出てしまうことが殆どだ。

それでも、作詞家として言葉を扱うことに関するプロであるチャンビンさんが、
「死」という言葉を忌避していることに尊敬の念と憧れを抱くし、
スキズの中でも随一に「愛」と向き合い真剣に考えているヒョンジンが
気を付けていてもうっかり使ってしまった時も
素直かつ迅速に言い換える努力にお尻を叩かれる気持ちになるし、

何より日々生きるための活力をくれている推しに対して使うには
良い言葉じゃないよな~と今更ながら思い直したので
すぐに語彙の全てや意識を入れ替えることは難しくても
アップデートすることを諦めずに、頑張って光に立ち向かいつつ、
推しが最高であるたび幸せに「生きて」いこうと思う。

そして "CASE 143"1億再生めちゃくちゃおめでとうございます!
生きる!!!!!!!!!

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