おばあちゃんの生き甲斐

 おばあちゃんにはハマっているものがある。それは目つぶしだ。

 ここ数年習っていた毛筆はいつの間にかやめてしまっていた。それから毎日ぼんやりテレビを眺めている姿に「なにか新しい趣味ができたらいいのにな」と私は思っていた。

その矢先だった。おばあちゃんが目つぶしをおぼえたのは。

きっかけは明らかだった。私が実家に置いていた格闘漫画。その漫画に、主人公が強敵との出会いを期に無敵の突きを習得するという回があるのだ。あるときから、おばあちゃんは、どこに行くにもその漫画をカラシ色のバッグに忍ばせている。みかんや飴といっしょに。

 おばあちゃんの目つぶしは、人差し指と中指でVサインを作る至ってオーソドックスなものだ。みかんの汁やあるいはお金をかけた催涙スプレーなどは好まない。「邪道」だそうだ。

 テレビばかり見ていた頃の虚ろな表情はどこへやら。いまのおばあちゃんは生気に満ちている。

おばあちゃんの朝は早い。まずは指立て伏せ。そして大黒柱を数百回突く。その後、砂利を詰めたツボを千回突き、朝食を食べる。

「誰にもできないことをできるコツはね。誰にでもできることを続けることなんだよ」

やはり日々の積み重ねが大切らしい。

 こうして書くと、まるで気の狂った隠遁者のようだが、ご町内での付き合いは欠かさない。ゲートボール大会やごみ拾いなどにも頻繁に顔を出す。とくに、ハイキングなど体力を使う催しの際にはいつもヒーローになっている。他のご年配がゆっくりと舗装された道を登る中、ほとんど壁と言っていい急斜面に指を突き刺しておばあちゃんは登る。話によると、おばあちゃんの影響で指立て伏せができるようになったおじいさんも多数いるらしい。

 また、ご町内の頂点に君臨するおばあちゃんを尊敬するのはお年寄りだけではない。中高生にも彼女のファンは多い。路地裏で不良が吸っている煙草を手刀でまっぷたつにし、改心させたこともあるそうだ。この前などは、駅前のマクドナルドで、女子高生の恋愛相談に乗っているのを見かけたりもした。

「毎日がね、ほんとに楽しい」

おばあちゃんはそう語る。

 ちなみに「おばあちゃん」と書いているが、年齢的にそうなだけで、私にとっては実の母である。結婚がだいぶ遅れた私だが、今度ついに第一子が誕生する。母もリアルおばあちゃんになるわけである。

「歳を取っても楽しみは増える一方ね。あなたももう少しこっちにいれば良かったのに」

そう言って父の仏壇に手を合わせるのも日課になっている。私の父は、私が大学を出てまもなく脳梗塞で亡くなった。そういうときの母は、やはり少し寂しそうに見える。

 そんなある日のことだった。久々に定時で仕事を終えた私に電話があった。妻からだった。

「大変なの、おばあちゃんが」

夕方過ぎのことだった。いつものようにおばあちゃんが買い物から帰っていると、外国人グループにワゴン車で攫われそうになっている女の子がいた。

すかさずおばあちゃんは参戦した。が、あまりの怒りに我を忘れ、3名の加害者のうち2名の額を割った。もう1名はついに右目を失明したという。

おばあちゃんは身柄を拘束され、私と妻は面会に行った。刑事に聞くと、被害者の娘が改めてお礼を言いに来てくれたらしいが、おばあちゃんは元気のない笑顔で相槌を打つだけだったそうだ。

「最近、県内で頻繁に起こっている事件がありまして。ちょっと刺激が強いかもしれませんが、いわゆる売春、武器の密輸などです。警察としても一刻も早く解決したい案件ばかりです」と刑事は言った。

「それがなにか」

「大元に絡んでいるのは外国籍の犯罪グループでね。で、事件というのは、その外国籍グループのメンバーが近頃次々に病院送りにされているという内容で」

「あまり言いたくないですが、警察はお母さんが事件に関わっていると見ています」

 面会の時間になった。

おばあちゃんは拘置所側のドアから入室してきた。私は言葉を失った。すっかり覇気を失った姿は、修行に明け暮れていた頃とは別人のようだった。

「…ひかる」

「母さん」

「…ひかる。お母さんはそのうちたぶんあんたらの子供も手にかけると思う」

まるでなにかの台詞を喋っているかのようだった。これも漫画からの影響だろうかと思った。やめてくれ。冗談だとすればあまりに趣味の悪い代物だ。

 「刑事さんの言ってたとおり。全部母さんがやったの」

「いろんな人に感謝された。あんたたちに知ってほしくないようなことにも関わったから、黙っておくように頼んだけど」

「最初はね、人助けのつもりだったの。老い先短い自分が、あと少しだけ世の中の役に立てたらって」

「…でも違った。愉しかったの。人助けできることじゃない。自分の技で誰かを傷つけるのが」

「ねえ、ひかる」

「むつみさんより先に逝ったら、あんた承知しないからね」

数日後、おばあちゃんは亡くなった。

生き甲斐を失くしたおばあちゃんは、みずから両手の指をへし折っていた。それを見つけた刑事は、まだ入ったばかりの新米だったらしい。

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