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ラッキー・ルチアーノ Part Ⅰ : 「禁酒法」を経て、暗黒街の分岐点となった「コーザ・ノストラ」の誕生

ニューヨーク、ロウアー・イースト・サイドのストリート。徒党を組んで万引きや窃盗を繰り返していた、イタリア系移民のタフな少年サルヴァトーレ・ルカーニアが、巨万の富を誇るチャールズ・ルチアーノ、「ラッキー・ルチアーノ」としてその名を轟かすには、さほど時間はかかりませんでした。このルチアーノに関しては、単なるギャングというよりも、当時の米国に跋扈する、シチリア・マフィア旧態依然としたシステムを一気にイノベーションした、「暗黒街の実業家」と呼ぶ方が相応しいかもしれません。資本主義に基づく市場の自由が保証された1900年代の米国のカオスを背景に、まるで小説か映画のようにゴージャスでシック、そして残虐なサクセス・ストーリーを紡いだのち、1946年、ルチアーノは国外追放となってイタリアへ帰還します。なにより興味深いのは、PartⅠで追う米国におけるルチアーノのイメージと、PartⅡで追うイタリアにおけるルチアーノのイメージに、明らかな差異があることでしょうか。その理由も推論しつつ、2回にわたって、ラッキー・ルチアーノの生涯をたどります。

ストリートから現れた時代の寵児

米国におけるラッキー・ルチアーノの評価として、まず驚かざるをえないのは、1998年TIME誌の特集、20世紀資本主義で勝利を収めた「ビルダーズ&タイタンズ20人に、ビル・ゲイツやヘンリー・フォードと並んでラッキー・ルチアーノが選ばれていることです。

FBIは、ルチアーノの躍進は組織犯罪の分岐点となる出来事と表現している。敵対していたグループを買収した後、ルチアーノは組織犯罪をシステマティックに統制した。ルチアーノはマフィアを近代化させ、利益重視の円滑な国家的犯罪シンジケートへと変貌させたのだ。そのシンジケートは、密造酒、ロト、麻薬、買春、ウォーターフロント、労働組合、フードマーケット、パン屋、衣料品貿易を支配する二十数人ボスにより運営された。その影響力は拡大の一途をたどって、合法的なビジネス政治法執行機関侵食し、腐敗させた」

「ルチアーノはまた、ギャングシック流行を常にリードした。ウォルドーフ・アストリアスイートルームで豪勢に暮らし、高価でエレガントなスーツ、シルクのシャツ、ハンドメイドの靴、カシミアのコート、柔らかなフェルトの中折れ帽子が、彼が重要な人物であることを強調した。そして彼の横にはいつも美しい女性、ショーガールやナイトクラブの歌手がいて、フランク・シナトラや俳優のジョージ・ラフトとも友達だったのだ」(TIME1998年 12月7日号)

いまだ「マーノ・ネーラ」のボスたちがオールド・ファッションなラケット=恐喝で支配していたリトル・イタリーのストリートで、ちょっとした盗みや恐喝、ヘロインやモルヒネの運び屋で小銭を稼いでいた少年は、成長するうちに経済的合理性に基づく「金を稼げそれを誇りに思えもっと稼げそれを誇りに思え:ヘンリー・R・ルース」「貪欲は良いことである貪欲は正しい貪欲はうまくいく:ゴードン・ゲッコー」(いずれも1998年TIME誌カバーストーリーより)という資本主義の基本スピリットを学び尽くします。

ルチアーノは、時代に渦巻くこのスピリットを、最も分かりやすく体現する過程で、「マーノ・ネーラ」のボスたちを冷酷にリストラし、シチリア出身ではない優良ギャング組織とのM&Aを行い、まさに国家規模とも言える犯罪シンジケート「コーザ・ノストラ(われわれのファミリーの事柄、われわれのビジネス)」を誕生させました。そしてそれは、その後のいわゆるマフィアと呼ばれる犯罪組織のあり方を完全に変えてしまうイベントでもありました。ちなみに、このTIME誌の「ビルダーズ&タイタンズ」の20人には、盛田昭夫、豊田英二、本田宗一郎も選ばれています。

いずれにしても、たとえ順当な組織改革を進め、巨万の富を築いたとはいえ、20世紀の世界経済に巨大な足跡を残した20人に、多くの殺人、恐喝、賄賂、みかじめ料を背景とした違法ビジネスを基盤とする犯罪組織、「コーザ・ノストラ」のビルダーである人物が選ばれる、などという出来事は、イタリアにおいても、日本においても起こりえない、と考えます。

この人選が、20世紀を席巻した怒涛の資本主義、及び経済的自由主義へのちょっとしたアイロニーなのか、それとも「Awesame!」という無邪気な直球なのかは判断がつきませんが、それぞれの国のメインストリームの価値観に、大きな違いがあるのかもしれません。

とはいえラッキー・ルチアーノが、米国、およびイタリアの暗黒街のみならず、その後の歴史に(国家という意味でも)くっきりとした足跡を残した人物であったことは、PartⅡで追う第二次世界大戦中の米国海軍への協力、という点においても間違いなく、もはや「ギャング」、「マフィア」、「悪党」などという言葉では表現できない伝説的な存在ではあります。また、現在に至るまで脈々と継続する、国際的麻薬密輸ルート基盤を作ったとされるルチアーノが、イタリアに帰還したのちナポリで過ごした晩年の、メランコリックというか、孤独というか、一瞬垣間見せる曖昧な人間性については、興味深くも思います。


ラッキー・ルチアーノ=サルヴァトーレ・ルカーニアが生まれたレルカーラ・フリッディ、父親が働いていた硫黄鉱山。foto-sicilia.itより。

さて、ハリウッドで制作された多くのギャング映画の登場人物のモデルともなったラッキー・ルチアーノは、1897年硫黄鉱山で有名なパレルモの近郊、レルカーラ・フリッディで、硫黄炭鉱夫のアントニオ・ルカーニア、ロザリア・カファレッリの3番目の息子、サルヴァトーレ・ルカーニアとして生まれました。兄と姉、そして弟、妹の5人兄弟の大家族だったルカーニア家を、父親の仕事だけではとても養いきれず、親戚や近隣の人々に助けを乞うことを嫌う父親が、「よりよい暮らし」を求めて米国行きを決断したのは、サルヴァトーレがもうすぐ9歳になる1906年のことです。
米国に到着すると、ルカニア一家はニューヨークのロウアー・イースト・サイドに、他のイタリア系移民の人々同様、酷い衛生状態の狭く、荒れ果てた下宿に落ち着き、やがて父親は過酷労働者の仕事を見つけます。その仕事から得るサラリーは、確かにシチリアでの鉱夫の仕事よりはいい稼ぎではありましたが、大家族を養うにはやはり充分ではなく、子供たちは相変わらず貧しい生活を強いられたのです。それでも両親は、米国で無料で受けられる子供たちの義務教育希望を託していました。

ところがサルヴァトーレは、といえば、学校に行ったその日から大きな疎外感を感じたそうで、なにしろクラスでは1番の年長にも関わらず、自分から見ると幼い子供たち喋る英語理解できず、授業も理解できず、ただ居心地が悪かっただけだ、と言います。
そうこうするうちに、サルヴァトーレは学校に行くよりもストリートで過ごす時間が多くなり、自分と同じシチリア出身少年たちと徒党を組んで、ロウアー・イースト・サイドのストリートで、盗み万引き、あるいはユダヤ系の子供たちから、乱暴なアイルランド系の少年たちからの保護、という名目で1ペニーを巻き上げ、小銭稼ぐようになりました。「マーノ・ネーラ」のみかじめ料システムを、ストリートの少年たちはすでに学んでいたわけです。

その頃に出会ったのが、シチリア出身の粗暴な少年たちから脅し上げられてもビクともせず、1ペニーの支払いをきっぱりと拒否した、痩せて小柄なユダヤ系移民の少年でした。そのときのサルヴァトーレは、自分より5つも年下の、その貧弱な少年の勇気感嘆し、生涯、重要なビジネスパートナーとなる友情を築くわけですが、それが映画「ランスキー」「ギャング・オブ・アメリカ」のモデルとなった、きわめて数字に強く、マネーロンダリングを含める金融、そして経営天才と言われたマイヤー・ランスキーです。また、ユダヤ系ギャングを描いたセルジォ・レオーネ監督映画「Once upon a time in America」の少年時代の描写は、ふたりのこの出会いのエピソードにインスパイアされたそうで、登場人物Maxのモデルがランスキーであることは有名です。


ストリートで出会い、生涯、親密なパートナーとして協力しあった、ラッキー・ルチアーノ(左)とマイヤー・ランスキー(右)。

ちなみにランスキーは、もし暗黒街で成長していなかったならば「ジェネラル・モーターズ総帥になっていただろう」と言われるほどに資本の流れや市場に敏感で、紙に書いて計算することなく、あっという間に利益を換算し、しかも一切帳簿使わずにすべて暗記していたそうです。そのランスキーが常にルチアーノと対等の立場で、あらゆるアイデア共有し、カリスマ的で、実行力があるルチアーノの頭脳となります。そして幼い頃に生まれた、このふたりの友情がのち、全米の犯罪組織の中で最も重要な機能を果たすことになるわけです。

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