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つきのさばく

 浅い眠りは、微かな震えと光に破られた。
 私はベッドの上で半分だけ身をよじって、それを見た。携帯電話は石のように冷えている。真夜中、二時過ぎ。メッセージ。発光する液晶のブルーライトは眼に悪いのだそうだ。たしかに大体なんでも体に悪い。食べ物でも、酒でも、なんでも。
 メッセージは別に緊急のものではなかったが、珍しいものではあった。だけど私はとにかく眠たくて、その光を片目の中に差し込まれながら眼を閉じる。
 目を覚まし朝が来たことを知る。普段通り簡単な弁当を作って、あまった食材を水と、顆粒の鶏がらで煮てスープにする。それを食べてから、身づくろいをして荷物を確認して家を出た。バスに乗りしばらく揺られて、電車を乗り継ぎ、職場に着く。仕事をする。一日がそれで終わって、私は家に帰る。
 この街にやってきたとき、私は十八歳だった。大学に進学するために、産まれた何もない町を離れて。そこは終わりまでの時間をずっと長く引き延ばしたように寂れている場所。やがて決められた状態になるまで少しずつ風化し続ける途中の町だった。それに比べるとここはにぎやかで明るく、終わりなどどこにもないように思えた。それはとてもまぶしくて私はすっかりあてられてしまい、帰ることが嫌になった。就職もこの街でし、ここに住むのにふさわしい人間になろうとした。うまくいったかどうかは、今でもわからない。
 すでに日が落ちてしばらく後、電車の中は明るい。沢山の光が流れていく。

 木曜には痣輪に会う用事があった。痣輪は私が学生のときからの友人で、年齢も同じだ。たしか南の方の出身だと言っていた。暖かそうだねと、私が間の抜けたことを言ったら、冬は雪が降るよと教えてくれた。私たちはよい友人で、そうなってから長い時間が経った今でも年に五回くらいは会って食事をしたり遊んだりする。私は痣輪の飾らないところが好きで、少し尖ったところのある喋り方と、センシティブであることを隠そうとしないところが苦手だ。多分向こうもそのくらいのことはあると思う。それでも私たちは友達だ。
 暗くなるのが早くなって、それでも街のあかりはずいぶんまばゆく、曇った空をぼんやりとした色に照らしていた。きれいな満月に微かに雲がかかってにじんだようになっているそれの、百倍も明るいものが百個地上にあって、アスファルトにはくっきりと私の影が落ちていた。柔らかな白の街灯、ネオンサイン。ぴかぴかする電球型の光たち。
 痣輪は先に指定の居酒屋にいて、ぼんやりと、居心地悪そうに座っていた。私が若干遅れたことを詫びると、通常運行だねと言った。私はうんとだけ答えてテーブルの上に置かれたメニューを広げる。真っ直ぐなグラスに入った色水みたいなお酒、なんだかおいしそうな絵みたいな肉、そんなものが沢山載っていて、なんでこの店なんだろうと思いながら、いくつかを痣輪と選び、注文をする。やる気のなさそうな店員が私たちの座っている箱のような席に顔を出してそして帰っていく。日に焼けた人形のように褪せた茶色の髪の毛。
 店員が去って料理が来るまでの間、私たちは今日決めなくてはいけないことについて話す。共通の友人である目野方と水ヶ谷が結婚するので、お祝いをしなければいけないのだった。
 あたりさわりのないいくつかの物たちから、結局セットのタオルを贈ることにして話は終わった。
 やってきた食べ物たちは食べ物だなあという味がする。プラスチックの箸で食べるとなんでも同じ味がする気になる。痣輪の箸の持ち方はとてもきれいで、まるで高貴な身分の人のようにひらひらともやしなんかを摘んで食べている。青色の飲み物の表面に付いた水滴が流れて落ちていく。電球色の照明が四方にあって複雑な影の色をテーブルの上に投げ出している。グラスを持ち上げて置いて、描かれた輪が光っている。

 私たちはインターネットで知り合った友達だ。今日日珍しい話ではないと思う。十年、もっと前の、今とは少し毛色の違うインターネットが私たちのふるさとだ。都市伝説というにも稚拙な怪談話や奇妙な出来事について話す場所がかつてあって、今はもうない。もしかして私たちが知らないだけで生き残っているのかもしれないがとりあず私はそれを知らない。私は自分の身の上に起きたことを誰かに話したくて、探して、そこにたどり着いた。みな大体そうだった。だけど、目の前の痣輪がやってきた理由を、そういえば私は知らない。
 グラスを持ち上げる手の小指に、とてもとても細いゴールドの指環が光っている。そんなものを身に着けるような人間だったろうか。痣輪も、私も。私は年月が人を変容させるのを見た。それは別に、普通のことだと今は思う。振り返ってみると少し奇妙なような気はするが、大人になったね、と言われたら、頷くしかない。
 そういえば、と私は言った。メールが、着たんだよ。
 一瞬、痣輪はなんのことだかわからない様子だった。残っていた千切りにされた野菜を取り皿に移している箸が止まって、解凍されたように動き出すまでの短い時間。私はその、まずい食事でも残そうとしないところを美徳だと思っていたことを思い出す。あんかけ五目炒め。ひき肉入りの餡がかかっている。ソーセージくらいなら食べたい、から揚げはこういう店ではもういい。たしかに老いていっている。
 私たちはみな古くからの友人であるが、今が一番近くに住んでいる。私も痣輪も遠方の出身だし、他の数人についてもそうだ。たしか目野方は近隣の出だったかと思うが、それぐらいだ。インターネットで私たちは繋がり、今もその恩恵にあずかっている。掲示板、チャット、SNS、形こそ色々と変わったが、本質的なところは特に変わらない。
 私が子供のときに家にやってきたインターネットは、私の人生をたしかに変えた。まず、私はそのときに興味のあった本について調べた。それで満足して、その後は特になにもしなかった。
 それからしばらくして、私の身に少し不思議なことが起こった。私はそれを、親や、学校の友達には言いたくなかった。なぜかと言われると、特に理由もないのだったが。
 その変化は、私の携帯電話に届いたものだった。進学して、バスと電車で通学をするようになったので防犯ベルに追加して親が買い与えたものだった。今のものとは比べ物にならないほどできることが少ないそれでも、メールの送受信はできた。そしてそれはやってきた。
 今でも、うっすらとそれを覚えている。学校から帰ってくる途中のバスの中だった。夕方の、斜めの赤い色の光が車内に充ちていた。バスの座席のやさしく毛羽立った座面に細やかな陰影が落ちている。誰かが、次、止まりますのボタンを押して、機械の音声が響く。車内は微かな音でいっぱいだ。エンジンの音、人の気配。やさしく柔らかな時間があった。違和感のある揺れが響いて、私はそれを携帯電話のバイブレーションであると知る。
 取り出して、紙飛行機の絵が描かれたボタンを押す。メールを見る。
「お元気ですか」
 その一文が目に入る。私ははじめそれを間違いだと思った。だれか、私ではない者にあてられたものだと。それに、今もそう思っている。
 私はそのメールを無視した。一度きりのことだと思ったからだ。メールはそれからしばらくして、また送られてきた。
 メールが五件を越えたあたりで、私は返信をした。あて先を間違っていますよと。最初の一通から、半年ほど経っていたと思う。返事はすぐ返ってきたが、それはそのアドレスが存在しないという内容だった。いたずらがそれで終わったのかと思いきや、それからまた半年くらいして、またそのメールはやってきた。

「ひさしぶり。お返事がこないけれど、どうしてもあなたに連絡をしたくてこれを書いています。ずいぶん経ちましたね。とても長い時間です。わたしはあなたの顔も思い出せなくなりましたが、あなたがそこにいたということを知っています。あなたのことを、今でもずっと好きです。言いたいことはそれだけです。では、また。」

 心当たりは正直言ってなかった。変なメールだとも思ったし、ずいぶん経ちましたなどと言われるほど、長い時間を生きていなかった。まだ学生で、自分自身の輪郭すらはっきりさせることができないような年齢だった。今だってできているかと言われたら困ってしまうけれど。
 メールはそれから、多くて半年に一回、少なくとも年に一回は届いた。なんらかの対策を講じるにも、頻度が少なすぎた。それに、私に向けてではないということはわかっていたけれど、今でもずっと好きです、という言葉はやさしい、ありがたいもののように思えた。私が普通に日々を過ごす中で、それは、言ってしまえばありえない言葉で、他人に向けられたものだということを知りながら私はそれを何度もかみしめて放せなかった。
 だから、それについてなにかをしようという気持ちは、別段なかったのだけど、あるとき私はなぜかこの話を人にしてしまった。自分でもどうしてそんなことをしたのかわからないが、多分、その人の気を引きたかったのだと思う。そんなことをしても特になんにもならなかったが。それで私はそういうことはもしかしてわりと多くの人間に起こっているのではないかという考えに至った。みんなが別に言うほどでもないと言葉にしていないことのうちの一つなのではないだろうかと。それで、私はインターネットでそのことについて調べた。
 結局、まったく同じような目にあっている人は特にいなかったが、少し不思議なことが身の周りに起きたときに話し合うグループを見つけた。どこに住んでいるかもわからない、遠い誰か。しかし、私にとってはなぜかずっと古いなじみのように感じられた。
 そうして知り合った友達と、ずいぶん長い間仲良くしていて、現在に至る。そのときは、私も地元の町にいたので彼らと実際に会うなんて夢にも思っていなかったが、顔を突き合わせてみれば当然ながらみんな普通の、やさしい、いい人たちだったので、何人かとはいまだに仲良くしている。もちろん、顔を合わせることすらなかった人間もいるが。
 痣輪と目野方、糠田のあたりは今でも付き合いがある。一時のようなとても近い関係ではないのだが、それでも大事な友達だと思う。少なくとも痣輪とは今こうやって顔を突き合わせてご飯を食べている。こんな大きな街で、ご飯を一緒に食べられる人間がいるなんて、すばらしいことだと思う。
 私は痣輪にメールを見せた。長い年月の間に、私の端末は形も機能も何度も変わっていったが、それでもこうやって変化しないこともあって、相変わらずメッセージはやってくる。痣輪はぺろんとした生のホタテの貝柱を箸でつまみ上げ、自分の取り皿に移しかえる。うす赤い店のあかりに照らされて、オリーブオイルがてかてかと光っている。
「ああ、砂漠の」
 そうそれ、と私は言う。かつて私はそれを三百年後の、月の砂漠からのメールと呼んでいた。特になにか未来の話などが含まれているわけではないのだが、その内容はすべて、私にただただ関係がなく、場所も時間もそのくらい離れているように思われたからだ。その名づけは今では過剰にロマンティックが過ぎると思うが、十六歳の私はそんなことを考えていたということだ。
 メールを読んだ痣輪は相変わらずだね、と言った。私もそう思う。はじめてこれが送られてきてから、長い時間が経っているというのに、文章の雰囲気は特に変わることがない。痣輪がスマートフォンの画面を撫でる。ぼんやりと発光する画面。表示された文字。

「いかがお過ごしですか。こちらはあいかわらずです。砂砂砂砂。たまに砂利。砂を踏みながら歩いていると、足の裏がきしきしといいます。その音を聞いていると、あなたのことを思い出します。それでは、また。」

 その日は、それで解散になった。割り勘をして、近くの駅まで歩いていって、電車に乗って帰った。私、こっちだから、と改札で痣輪とは別れた。街の駅にはいくつもの電車やバスが乗り入れていて、最適なものを選ばなければいけない。この街に来たばかりのころは私もよく間違えたものだ。今では、使うことが多い駅なら逐一確認をしなくても動けるようになった。それがいいことなのかどうか、私にはわからない。ただずいぶんなじんだものだとは思う。私の家は、そこからしばらく電車に乗って、一度乗り換えて、バスに乗るか、十五分くらい歩いたところだ。特に広い部屋ではない、普通くらいだと思う。
 廊下の片面がキッチンになっていて、ユニットバスと、部屋が一つ。小さなローテーブル。背の低い棚の上にテレビ。備え付けのクローゼット。ベッドを置いてしまうと部屋がいっぱいになるので、畳めるマットレスを使っている。
 普通だ、と思う。何も変わったところがないと。窓を覆う薄いグレーのカーテンは少しだけピンクが混じった色で、私はこの色の名前を知らない。風呂に入る。シャワーカーテンをひいて湯をためる。小さな湯船は私が浸かるといっぱいになるから、半分くらいまで。シャワーを出して、ちょうどよくなるまで六分半、タイマーが鳴るようにセットしておく。私の暮らし。湯船の中で歯を磨く。横に備え付けられた洗面台から水を出す。ガラスのコップ。最初は味が違うと思った水に、今では違和感すら覚えなくなった。窓の外、ベランダ越しの向かいのマンション。ぽつぽつと、ただ光っている照明。私はこの街にいて、一人で生きている。
 寝て起きてお弁当を作った。炊いた後ラップに包んで冷凍庫に入れていた米を電子レンジで解凍して、半分を小さな弁当箱に入れる。作りおきの豆腐とひき肉のハンバーグを一つ。たまごを一つだけ溶いて、醤油を入れてフライパンの中でなんとか卵焼きみたいにまとめる。茹でてラップにくるんで小さな玉の形で冷凍していたほうれん草を解凍して、バターで炒めたものを隙間につめた。紫色のふりかけをお米にかけて、蓋をしめる。
 ほうれん草の余りと卵焼きの端切れをフライパンに入れて、水を乱雑にかけ、顆粒の鶏がらを瓶のふたに移してそこにざらりと入れ、火にかけて沸騰したらIHのボタンを押して、味噌を入れる。弁当に入りきらなかったお米を入れた器にそれをばしゃっとかけてかき混ぜながら食べる。特に代わり映えのしない朝。
 私の仕事は紙を見たり、パソコンに向き合ったりするもので、特になにか好きなことではなかった。好きなことを仕事にするのはよくないと聞くし私は特に不満を持ってはいなかった。代替可能な部品であるということと、それでも長く留まってしまったのでやるべきことや、責任という名前で呼ばれるいくつかのことは矛盾なく両立する。今ここに問題はあって、一瞬で解決するというわけではないということ。ここにいるのは私だが、私の個人的なことや、人間としての部分は特に関係がないのだ。ただ決められた時間を売り渡して、弁当を食べ、また働いて、たまには居残って、帰る。なんの予定もないので、家に戻って寝る。
 
 痣輪たち以外の友人だっている。数は少ないが同郷からやってきた人間たちや、大学のころからの友人。会社にも友人というまでではないが、たまに食事に誘い、誘われるくらいの関係の人間はいる。ただそれもいくつかの人間の広がりの輪の、重なったところに引っかかってるような感じで、とても親しい人間というのもいるわけではなかったが。
 やはり会う回数も一番多いのは痣輪たちのグループのうちの誰かという感じだった。次に会ったのは糠田の妹だった。
 糠田はそのインターネットのサークルの中でも一風変った人間だった。他の人間は、大なり小なり自分の身に起きた奇妙なことの話をするべくそこにやってきているのだったが、糠田だけははじめから自分の話は創作だと言い切っていた。
 そして、他の人間の話を自分の書き物のヒントにするべくそこにいると明言した。私は最初それは正しいことなのかわからなかったが、みんなが特になにも言わないので、問題はないのだろうと勝手に解釈していた。インターネットの、特に狭いくくりの中のルールは複雑で、私は今でもなにが正解なのかよくわからない。糠田はいまだに色々な人間に話を聞いて回っているらしく、私のところにもメールの話を聞かせろと今でもたまに連絡をよこす。私はなんとなく言う気になれなくて、話を逸らしつづけているのだが。
 その妹はきれいな人で、糠田にはまったく似ていない。真っ直ぐな黒髪を肩に着かない程度に切っていて、二重の大きな眼と、ふっくらとした厚い唇が、あどけない可愛さと独特のセクシーさを両立させている。洋服も流行ではないがいつもこぎれいにしていて、なんというか、あまり付け込む隙がないような人間だった。
 会う予定など入れていた訳ではなかった。駅の雑踏の中、私はたまたま彼女を見つけた。相変わらずブルーのストライプのシャツと黒のパンツという清潔感のある格好で、珍しくヒールのない靴を履いている。彼女も私に気がつき、どこかでお茶でも、ということになった。
 どの駅にもありふれているコーヒーショップのソファに私たちは向き合って座り、私はナッツの香りのするラテを、彼女は紅茶を頼んだ。お湯の中でティーバッグが泳いでいて、なかなかおいしい紅茶にありつけないと彼女は笑っている。
 どうでもいい話をした。みんなの近況や、最近始めた些細なこと。お弁当の具に困っているということを喋ると、彼女はいくつか新しい常備菜について教えてくれた。
「でも、めんどくさくなったら冷凍食品でいいじゃないですか。私もそうします」
「そうだね。でも、あれ高くない?」
「高くないですよ。入れたら格好がつくんですよ。それに、あれは食品会社の人が苦心して作ってるんですから、プロの味って思えば安くないですか」
 なるほどねえ、と私は相槌を打つ。冷凍餃子なんて凄いですよ、最近のは。水を入れなくても羽根つきでぱりぱりですよ。と教えてくれる話を聞かずに私は彼女の口元ばかりを見ていた。あんなに見事な、フラットな口紅は、どんなふうに塗ればいいのだろう。やわらかすぎず、深すぎず、鮮やかすぎもしない、いい色だ。手元には細い金色のブレスレットが一つ。きれいな人だと思う。私には悪いところが見当たらない。彼女みたいな人間でも、人に嫌われることがあるのだろうか。
 私は二、三、おすすめの冷凍食品を教えてもらった。彼女の口から語られるそれはずいぶんおいしそうだった。あらびきハンバーグ、カレー味のコロッケ。わかっている。買って食べたところで彼女が言っている味ではないことを。私たちはすぐに人と同じさまざまな気持ちや体験を味わう事ができると思いがちだが、それはおおむね間違っている。こうやって向き合っていて、私がもし彼女と同じティーバッグの紅茶を飲んでいたとしても、私たちは歯の形、舌の広さ、今まで味わってきたものなどすべて違うのだから、味は変わって当然だ。しかし、私たちはすぐ寂しくなるので、向き合ってお茶は飲みたくなる。だから、こうして座っていて、私はナッツのラテを飲む。
 どうでもいい話ばかりしていたら、時間は思っていたより早く経った。なにも決めなくていい会話が好きだ。この間の痣輪との会話は決めなければいけないことがあって大変だった。私たちは友達だけど、さして趣味などが合うわけではないのだ。
 妹の細い腕の上できらきら金のブレスレットが光っている。砂粒みたいな小さな輝き。もう帰らなくてはいけない時間だ。私がそれを言うと、彼女はそうですねと言い、口元を上品な笑みの形に保ったまま席を立とうとした。そして、なにか、ほんの些細な忘れ物をしたような口ぶりで、子供ができたんですよ、と言った。私はなにを口にしかけていたのか、もうわからないのだが、少しだけ言いよどんで、そして、おめでとう、とだけ告げた。
 糠田からも彼女からも、結婚したという話は聞かない。私が知らないうちにしている可能性はあるが、なぜだか私は彼女が一人で勝手に子供を作ったような気持ちになった。
 欲しいと思ったから、お腹の奥にそれを伝えて、体が納得したのでできましたというような。勝手なイメージなのだが、そういうところが彼女にはあった。
 その日、私は寝入りばなに彼女の夢を見た。ブレスレットの金色のさらさらした光が、彼女のお腹の中にどんどん入っていく。そんなに沢山入って、大丈夫なのか聞くと、これが子供になるのだと言う。
「月の砂漠まで行って、砂を取ってきたんですよ。最近はみんなこれです」
 砂から産まれた子供たちは、私たちとどう違うのだろうかと、私は彼女の腹に耳をつけてその音を聞いていた。微かな、波の音がした。ホワイトノイズ。
 目を覚ます。いつもの時間だ。
 せっかく教えてもらったのに冷凍食品を買い損ねた。私はどうも、彼女に子供ができたということにずいぶん驚いたらしい。変な気分だ。私は糠田の友達というだけで、たいしたつながりも持たない。ただ、偶然駅で会ったらお茶でもしようかなというくらいのものだ。結婚をしているかどうかすら知らないのに。
 なんとなく弁当を作る気にもならず、最低限の身支度のみで出勤する。いつもどおりおおむねのことは理解できている仕事をこなし、お昼ご飯をコンビニで揃えようと財布を片手に会社を出た。あたりには同僚たちが数人いて、同じ部署の顔見知りもたむろしている。
 そのうちの一人が、あ、と私の顔を見た。
「今からご飯ですか」
「そう、買いに行こうと思って」
「外行くんですけど、ご迷惑じゃなかったらご一緒しませんか」
 そう言ってこちらを見てくる顔は、なんというか表情というものがあまり読み取れなかった。昔からこういうときの正解がわからないままだ。結局いいよと言って連れられてきたのはなぜかうどん屋だった。先に数人が並んでいて、お昼ご飯を並んで食べるなどということを考えていなかった私は少し驚いた。出汁にこだわっているなどの能書きが毛筆で書かれて額に入れられ壁に掛かっている。カウンターだけの店で、何人かで横並びに座った。
 かき揚げの入ったうどんは、たしかにおいしいのだけどなんだか食べた気がしなかった。
 食べ終わってしまうと外にまだ人が並んでいるようだ。横に座った同僚はまだかかりそうだが、声をかけてきた人がちょうど箸を置いたところで顔を見合わせ、とりあえず二人で会計を済ませ店を出る。誘ってもらった手前、なんだか慌しいねとも言えずに、ぼんやりと肩の辺りを見ていると、おいしかったですか、と聞かれた。うん、と、曖昧に頷くと、また誘ってもいいですか、と聞くので、この店でなければいいかなと思ったけれど、無言で頷いておいた。
 ポケットの中でスマートフォンがムームーと音を立てるので、開いて見ると痣輪だった。近々ご飯でもどう、という内容で、考えてみれば私たちはご飯ばかり食べている。
 予定は少し先になったけれどなんということもなく決まった。休みの日だったので、なにかしたいことがないかと聞くと、買い物と映画が観たいと返ってきた。少し前から話題になっていた映画だったので、まあいいかと思って一緒に行くことにした。
 駅にやってきた痣輪は最近知った雑貨店が気になるということで、スマートフォンを見ながら、繁華街を歩いていく。しばらく進むと普通の雑居ビルの中に、いきなり空色に塗られているドアがあって、開けてみると、中にはいろいろなものが詰め込まれていて、ペンや、小さな鏡というようなこまごまとした普通の雑貨屋にありそうなものから、虫の標本や、石、古めかしいかたまり、なんの道具になるのかわからないような木や鉄のなにかなどがひしめき合っていた。隅の方には小さな机があって、厚紙に印刷されたメニューが置かれている。見てみるとコーヒーと、紅茶とソーダが飲めると書いてある。私たちは座って、それぞれ注文をする。
 痣輪は立ち上がって、少し離れたところまで歩き、中に金の針のようなものが入った水晶を矯めつ眇めつしていた。私はなんとなく気後れして椅子に座ったまま、ぼんやりとそれを見ている。壁にかけられた時計が、カチコチとうるさい。机の横に、三センチ角くらいの箱に脱脂綿をつめて、そこに小指の先よりも小さい、ガラスの一片が置かれているのに気がついた。こんなところにあるなら、普通のガラスとは違うのかなと思って、箱ごとつまみ上げると、丁度コーヒーのカップを持ってきた、店員らしき人間がそれを観て、それ、天然のガラスなんですよ、と、言った。
「リビアンデザートグラスっていうんですよ。砂漠に落ちた隕石のせいであたりが溶けて、冷えて固まったものなんです」
 なるほど、珍しいものであるのはわかった。私は曖昧にその説明についての感謝を述べ、運ばれたコーヒーを飲んだ。痣輪も席まで戻ってきて、一緒に座った。
「こういうの、好きなんだね。知らなかった」
「うん。昔から好きだよ。石とか」
 そう言いながら、飲み物を飲んでいる。時計の音だけが、妙に大きく聞こえる。
「好きなものがあるっていいね」
「それは、自分で選べるからね。好きなもの買って、周りに置いておくと気持ちがいいじゃない」
 そういう痣輪の腕に、光っている小さなブレスレットを見る。それも?と私は尋ねる。
「そう、これも。これは自分で作ったんだよ。最近はこういう材料がその辺で売ってて、説明書を読みながら作ったら作れたんだ。いいよね。こういうシンプルなの、欲しかったんだけどなかなか売ってなくって。ブレスレットだったら、手につけておくから見るじゃん。なにか、これを見るたびに思い出すことにしておけば、自分でも、踏みとどまったりできるから」
 後ろの言葉は、まるで自分に言い聞かせているみたいで、なにを思い出すのか、踏みとどまるのか、訊くことはできなかった。
 映画の時間が近づいて、私たちは歩いて映画館を目指した。スクリーンがいくつもあるシネコンで、いつから映画館というのはこの形になったのだろうかと考える。少なくとも私が子供のころは、もうこの形だったような気がする。だが、映画館という言葉のイメージは、なんだかもっと大きくて、スクリーンも一つしかないような、そういう建物だ。知りもしないものを懐かしく思うのはなぜだろうか。たとえば夕日の商店街。電線の張り巡らされた空、文化住宅。足元がふかふかするロビーに立って、そんなことをぼんやりと考えている。飾りになった古い映画のポスター。たかだか数十年前の大名作。
 チケットはもう予約したから、と発券端末に向かう痣輪にポップコーンを買おうよと言うと、邪魔になるだけだからそんなものはいらないと言う。私がこの収益も立派な映画館の儲けだと言うと、変な顔をした。少しだけもめて、間を取ってコーヒーを二つ買った。飲んでみるととても不味かった。
 映画はたしかにおもしろくて、興味深かった。終わった後その感想を言うと、いつでもそんなふうだと返された。それでもいいと思う。誰かが一生懸命作ったものが面白かったならいいじゃないか、と。外に出ると中途半端な時間で、太陽はだいぶ傾いでいたが夕日というにはまだ明るい。少し歩こうか、とどちらが言うまでもなくそんな雰囲気になって、私たちはビルの谷底を特に目的もなく歩き始めた。
 歩きながら、どうでもいい話をした。実家から転送されてきたハガキ、仕事のこと、最近の弁当のおかず、同僚と食べたうどん。食べ物ばっかり、と痣輪は笑って、私もつられてそうした。痣輪は、プライベートのことをほとんど喋らなかった。ぽつりと、本当に一言だけ、なんだか私だけ貧乏くじをひいているみたい、と早口で言うと、すぐ、なんともないですという顔に戻った。
 本当に目的もなく歩いていたので、いつの間にか私たちはずいぶん遠くまで来ていて、今から元の駅に帰るのは面倒だということに気付く。スマートフォンで最寄り駅を確認して、あっちだ、こっちだと言いながら歩いているとなぜだかいきなり墓地に出ていた。まさかそんなところに着くなんて思っていなかったし、横切ることもできそうだったから、二人でおっかなびっくり、門を潜った。
「こんなところ、あるんだねえ」
「まあ、街でも人は死ぬもんな。みんながみんな、ふるさとへ帰って葬られるわけでも、なし」
 と言いながら歩いている。墓の中とはいえ道はきれいに整えられており、歩くのにはなんの苦労もいらなかった。風は吹いて、さやさやと微かな音を立てて木々は緑の葉を揺らしている。
 地面にうっすらと見えるまだらの柄はべっこうのよう。そこかしこにある墓石をのぞけば、すてきな公園といってもいいような雰囲気だった。向こう側に見えるビルの方が、よっぽどお墓みたいだった。
 私はふと、この間会った糠田の妹の話をした。痣輪は彼女のことを、まらるめと呼んだ。
「まらるめっていうんだ」
「あれ、知らなかった?まあ、あだ名だけどね」
 で、まらるめがどうしたの、と問われて私はこの間たまたま会ったことと、子供ができたと聞いたことを話した。そうすると痣輪は変な顔をして、子供、と言った。
「そう、子供ができたって。結婚してたっけ、彼女」
 ふうん、と言って黙り込んでしまう。その雰囲気に話を続けることができなくなった。先ほどまでとても気持ちのよい木漏れ日が落ちていた墓場の道は、なんとはなしに暗く、冷たい風がぴゅうと吹いて、私は取り繕うように、早く帰ろう、と言った。
 墓地を抜けたところに地下鉄の入り口を見つけて、私たちはそれに乗った。普段乗らない電車の振動がなんとなく大きく感じられた。窓の外を見ようにもただただ真っ暗で、私はいまだに地下鉄というものになれていないのだなと、自分のことなのに少し不思議な気持ちになった。
 故郷にない物。この街に来てもうずいぶん経つというのに。痣輪は黙って、俯いていた。天井にレールを写したように並ぶ蛍光灯が、頬に睫毛の影を落としている。私がはじめて知り合ったときはもっと丸い頬をしていたのではなかったか。この人は誰なんだろう。左手の小指に小さな金の指輪をする人。私の友達。
 地下鉄はいくつかの小さな駅を滑りぬけて、聞きなれた名前に到着した。なれない乗り換えで私がもたもたとしていると、痣輪は先にすばやく歩き、改札へ向かっていた。その背を数歩離れて追いかけていると、ぴた、と歩みを留め、小声で、そんな気にされたらこっちだって困るよ、と言ったのが、ホームに滑り込んできた別方向からの電車の音で、切れ切れに聞こえてきて。私は驚いて、呟かれた言葉に少し腹が立って、そしてなんだか可哀想になって、痣輪、と、言いかけて、それはその電車のどうと吐き出した人たちのなかにばらばらになってしまったのだけれど。
 なんとか、なにか言った?と聞こえなかったふりをして尋ねると、なんにもない、と答えられて、私は、どうしようもなかった。痣輪と別れて、自分の家へ続く電車に乗ったときに、私は少しほっとしてしまって、それもなんだか悪いことだと思って、いたたまれない、つらい気持ちになった。普段は飲まないお酒をコンビニで買って帰って、湯船に浸かりながら、缶のままどんどん飲んだ。
 大人になれば、人間はだんだん鈍感になっていって、些細なことも気にならなくなって楽に生きられると誰かが言っていたような気がするが、私はずいぶん年をとってもこのままだ。多分、一生こういうつまらない、些細なことばかり気にしながら生きてしまうのだろう。繊細であることは、そう悪いことではないと思うし、こんなに大げさに捉えてこれ見よがしに痛がっているのは、体が温かくなった今はむしろ滑稽なように見えるが、それでも、私の心は、私のものだ。
 缶を三つ並べたところで、私はどんどん愉快になってきてしまって、歯磨きをゆっくりした上で風呂の、少しばかり冷たくなった湯を抜きながら小声で歌を歌い、石鹸で体を洗い、頭を洗い、機嫌のいいふりをしながらドライヤーで髪を乾かして、そのまま眠った。大丈夫、自分で、自分の機嫌が取れる。缶チューハイ三本なんてずいぶん安上がりな方法で。
 その夜私はまた、まらるめの夢を見た。彼女の周りには背の低い木がいくつか生えていて、枝は地面と平行になるように広がっていた。楕円が少しゆがんだかたちの葉が沢山ついていて、色はつやつやした緑色だった。その中に丸い果実がいくつかなっている。彼女はそれが、まらるめ、という実だといった。私の名前の由来なの。それが、嘘であると私は知っている。しかしその実は豊かで、明るい黄色をしていて、たしかにそういう音の響きがよく似合ったので、私は特になにも言わなかった。彼女はその低い木に薄い布でできた天蓋を吊るして、その中に入っていた。私は招かれて布を潜った。そうすると後ろで軽い音がして、入り口を留めていたなにかが外れたのだということがわかった。
 その空間は微かに柑橘系の香りがして、さっきの果実はそのような種類のものであるのだなと思っていると、彼女の手にたしかに同じものが載せられている。はじめはいつかのあの輝くブレスレットばかりを気にしてしまったが、果実をよく見ると月だった。ぼんやりと薄明るく光ってるそれを彼女は銀色のナイフですぱすぱと切った。中には光り輝く砂が入っていて、どんどん溢れてくる、それに眼を向けずに切り分けた皮の一枚と、いくらか付いた果肉を彼女は私の方へ向けた。受け取ると、それは完全に砂になってばらばらと散ってしまった。私は途方にくれ、そして目を覚ました。時刻は四時半、起きるには早すぎる。
 もう一度眠って、今度は落ちかけた飛行機が水面の上を滑っていく夢を見た。翼の先が、灰色の波に真っ直ぐな白い線を引くのが、きれいだった。そしてきちんとアラームで目を覚まし、私は会社に行く。ソーセージとベーコンの炒めたものと、卵焼きと、冷凍食品のコロッケが入ったお弁当を持って。

 私たちは古くに知り合っていまだに仲がいいけれど、もちろんもう会わなくなってしまった人も沢山いる。今でも思い出すのは九月のことだ。
 九月は、変わった人間だった。今でも、うまく言うことができない。立って歩くだけのことを、なんとか、ようやくやっているといった雰囲気で、きれいな顔をしていたけれど、それもなんだか作り物のような輪郭をした人だった。九月もそのインターネットの知り合いのうちの、はじめは誰かに紹介されて来たのだったと思う。何人かで顔を合わせたときに、そこに九月はいた。椅子に座っているというのに、なぜだかそこに佇んでいる、という風情で、伏せがちにした睫毛が眼球に影を落とすのが、とても色濃く、瞳の色はもっと深かった。
 なにを喋るでもないけれど、そこにいるだけで人目を惹く人だった。私たちは今と変わらないようななんでもない話をしていたけれど、みんなどこか九月の存在を意識して振舞っていた。
 私も、もちろんそうだった。ただ、自分から話しかけることはしなかったけれど。
 私のどこがあの人の琴線に触れたのかは正直わからない。数日の後、九月から私に連絡があった。今度お茶でもしませんか。という当たり障りのないメッセージは、それでもとても嬉しかった。言葉通りにとるのもどうかと思ったが、その後私たちは実際に古い喫茶店に一緒に行って、あたりの古本屋やこまごまとしたものを置く店を覗いたりすることをした。多分、そのときの私たちは友達と言ってもよかったと思う。
 今でも思い出す、夕立のエスニック料理を出す店の、ビニールのひさしの下。向こう側に滝のように流れる雨水を見ながら飲んだベトナムビール、青菜炒め。沢山のハーブの向こうに見える九月の白い肌。その下で些細な話を沢山した。
 私の例のメールの話を、九月はなんども聞きたがった。実際に携帯電話に来たものを、ほら、これだよ。と言って見せるととても愉快そうに眼を細めていた。

「お久しぶりです。いかがお過ごしですか、こちらは砂嵐ばかりです。この前少しだけ晴れ間があって、隙間から空が見えました。黒い空になにかちらちらするものが見えましたが、星だか、砂だかわかりませんでした。微かなあかりが、砂の中に反射して光ったのを拾って見るとガラスの瓶でした。珍しいことです。そちらはどうですか、星は見えますか、では、また」

 九月は音楽を作っている人間だったので、今度ライブがあるから来て欲しいなどという話をしてくれた。その後実際に行ったのだが、私には難しい音楽で正直よくわからなかった。または、打ち明け話。九月は、それを、実は私親知らずが二本ないんだよねというように話した。一つは、体に腫瘍ができて、病院で調べて切ってみたら中に髪の毛と歯が入っていたんだよね、ということ。そしてもう一つは、実は自分は幽霊であるということだった。
 ずいぶん突拍子がなくて、私は笑ってしまった。それ以外に適する行動を見つけることができなかったのだ。それからあんまりにも酷いのではないかと思ってしまった。からかわれているのだと。余りにも腑に落ちない顔をしていたのだろう、九月は私の目を真正面から見て、もう一度同じことを言った。
 それから、話をしてくれた。長い話だった。

 九月がまだ小さな子供だったとき、当然ながらまだ生きていた。元気のいい子供だったよ、と言う横顔からは、そんな生気は到底感じることができない。
 近所に一人、変わった大人がいて、子供たちは近寄ってはいけないと言われていた。よくある話だ。その大人は実際は高名な芸術家だったらしいと後から聞いたが、それが本当かどうかはわからない。とにかく、どちらかというと人間というか半分野良のけもののようななにかが、九月の町には住んでいた。
 町は、と目を細めて、なにか遠くにあるものを見ようとするかのように九月は言う。
 坂が多くて、実際こういう、山を三分の一削ったところから家がぽつぽつ建っていて、下に行くほど多くなる。打ち寄せる波みたいな形で、かなり高いところに、団地が沢山建っていた。昔はもっと人がいたらしくて、まばらだけども空き家もあって、静かな所だった。ただ、大きな街まで列車で一時間くらいで出られるところだったから、住んでいる人はそれでも多かったよ、子供もいっぱいいたしね。
 子供はもちろん言いつけを守らないから、私たちはその大人をからかい半分で遠巻きに見ていた。町のはずれの、なんだか大きな家なんだけどちょっと崩れかけたようなところに住んでいたから、そのガラクタのいっぱい置いてある庭になにか投げて、こっそり取って来られたら勇者だっていう遊びがはやっていてね。もちろんやったよ。その日は誰かの体操服を入れた袋だった。いつもと変わらない。塀が壊れたところがあってね。普通の六年生じゃ少し無理なくらいの穴、四年生ならまあ大体みんな通れる、それを潜って入るんだ。
 庭の中は、なんだか泥の塊みたいなのがいくつも置いてあって、晴れた日でもすえたにおいがするんだ。あれに似たにおいはちょっと嗅いだことがない。ごみというわけではないし、かびくさいのとも違う。人間とか、動物の体臭でもない。穴を潜り抜けた瞬間からするんだけど、微かだから入ったほかの友達でも、確かにしたという奴もいたし、そんなのしなかったっていう子もいた。とりあえずそこに落ちていた袋を、今でも覚えているんだけど紺色で、恐竜の小さい絵の柄だった。拾って、すぐ穴から出ようとしたんだ。そのとき、声をかけられた。
 まあ家なんだから当然ながら住んでいるんだよね。Nさんって名前だった。悪い人じゃなかったよ。ぼさぼさの頭をしていて、お兄さんって年齢でもないのはわかったんだけど、結局あのとき、いくつくらいだったのかな。正直わからないんだ、結構な年齢だったとは思うんだけど。
 見つかって絶対怒られると思ったからとりあえず逃げようとして、そうしたらちょっとお茶でもどうかな、なんて言われて。お菓子もあるよって。そこでちょっと思ったんだよね。庭に落ちた袋を取って帰ってくるだけで勇者、じゃあ、家の中に入ってさらになにかを取ってきたらどうかな、って。そうそう、子供のころから今みたいなやせっぽちだったから、いろいろあるんだよね子供にも。結論から言うと割とよくしてもらったわけ。なにか手ごろな持って帰れそうなものないかなってきょろきょろしてたらNの方から、あ、そうなの、Nって呼んでた。さんとか、付けるかんじの人じゃなかったから。そう、なにか気になるものがあれば一個あげるよって、それがおかしいの、友達の証だよなんて、小学生の子供にね。
 うんもらったよ。なんか焼き物の、このくらいの。すぐなくしたけど。芸術なんだったらもしかしてすごい価値があったかもしれないのにね、子供って馬鹿だよ。残酷だしね。そう、残酷だったの。それから何度かNの家に行ってね、行くととても喜んでくれて、最初は紅茶しかなかったんだけどオレンジジュースとか置いてあるようになって。家の中に入るとあの匂いはべつにしないのね。普通の家だったよ、すごく散らかってたけど。私の家もまあ散らかってたけど、もっと。机の上にもいつ行っても飲みさしのコップとかコショウの瓶とかなんかよくわからないものがいっぱい置いてあって、いつもざらざらってこう手でやってよけてそこにオレンジジュースとお菓子。うん、なんかちっちゃいパックの奴で、お菓子もこういう、なんかおばあちゃん家にあるようなやつ。袋に入った。だから別にそれは汚くなかったし、普通に食べたよ。
 ああ勇者ね、なんか別になれなかった。むしろそのせいで余計浮いた。仕方ないからNの家行ってたみたいなところある、遊んでくれる子少なかったから。なにその顔、なにもないって。ああなんかロリコン的なのはそうだったかも知れないけど本当になにもないの。触られてすらない。
 そうそんな感じでね、遊びに行ったり、まあ子供なりに暇じゃないからいつも行ってたわけじゃないけど。半年くらいかなあ、行ったら誰もいなかったときあって。でもう家の中とか全部わかってるわけじゃん。鍵も閉まってなくてさ。普通に入ったの。部屋見てまわって、一番奥の部屋、ベッドがある。入ったことなかったよさすがに。寝室っていうのは知ってたけど。そこにこう、なんか布がかかっているのがあってさ、なんだろうなってめくってみたら、それ私の絵だったの。
 それがすごくよく描けててね、ぜんぜん知らない、白い建物の中にいて、向こうが見えるけど砂漠みたいになってるの。その手前になんか段差みたいなところにこうやって座ってて白い服着てたと思う。こんなかんじね。それ見て、なんとなくああもう私死んだんだなって、私は死んで、この絵の向こうに行ったんだなって。ここにいる私はただの残りかすっていうか、紅茶をいれた後の茶葉みたいなもので、この絵の私が本当の私なんだな、って思って。ずいぶん長いこと見てたと思うよ、まだ明るかったのが夕焼けになったくらいまで。だれも来なかった、Nも、もちろん他の子供も。窓の外でカラスが鳴いて、私はもう一度その絵に布を被せて、帰ったの。
 それから私はずっと幽霊なんだよね。もう死んだんだから、そうなの。でも幽霊暮らしも結構楽しいよ。

 そこまで話すと九月はコップに残っていたレモングラスティーを一息に飲んだ。氷もずいぶん溶けてしまっていて、コップを持ち上げた跡がテーブルの上に丸く残った。相変わらず雨はだばだばと轟音をたてながら降っていて、私はそれを見ていた。
 湿度のあるぬるい風に、それでもレタスの葉や、一切れ残った生春巻きが乾燥していくのを見ていた。コップの跡の水の輪はもう一つ増えて、重なる。
 幽霊って、と私は言った。それ、別に、死んでないじゃん。
「ううん、私、あそこで死んだの」
 頬杖をつく姿さえ、九月は美しかった。わかってくれるとは、思ってなかったからいいよ、とうっすらと微笑んでいて。それからもう店を出ようか、と言った。九月に会ったのはそれきりだった。次は飲茶を食べにいこうね、と約束はしたのだが、日がなかなか合わなくて自然に流れてしまった。
 私から連絡するのは、なんとなく難しくて、機会を待っているうちに月日は過ぎて、大分時間が経ってから、今注目のニューフェイス、みたいなのを取りまとめたインターネットの記事を、誰かが見せながらこれ九月だよと言ったことは覚えている。小さなスマートフォンの画面の中で、真四角に切り取られた画像に収まったその人は、本当に九月だったか、私にはわからなかった。黒く塗られた唇に、光が当たってつや、と光っている。

 ぼんやり生きていると季節はすぐに変わってしまう。私は昔から漠然と生きていて、真面目そうな痣輪はもちろん、幽霊だと自分のことを言っていた九月の方が、よっぽどしっかり自分の人生を歩んでいると思う。気がつくとあらかじめ予定されていた「ちょっとしたパーティ」の日がやってきてしまった。
 これは、一応のところ結婚式なのだが、主役の目野方と水ヶ谷は以前から同棲をしていたし、なにをいまさらという感じで、それでも区切りをつけようということになったらしく、友人や、親しい家族などを呼んでパーティをするということになったのだ。もちろん場所も格式ばった神社や教会ではなく、レストランの中の小さなホールを借りてするということだ。
 それでも結婚式は結婚式だ。私はそれなりに見栄えのする服を揃え、一応いつもよりしっかりと身づくろいをした。最寄り駅で痣輪と待ち合わせて会場へ向かう。痣輪は特に変わりないように見えた。もちろんいつもよりきれいに整えてはいたが。あの金の指輪もブレスレットもなく、金色の繊細な腕時計が収まっている。爪はすべすべと光っていた。よく晴れた日で、空には雲の一つもない。
 会場に着くと、小さなウエルカムボードが出ていて、私たちはその掲示のとおり上の階へ昇った。エレベーターは隅々まで白く、清潔で明るかった。受付を済ませ、会場に入る。中は小さなホールになっていて、高い天井に、壁には縦長の窓がいくつもあって、淡い緑色のカーテンがかかっている。天井も高く、気持ちがいい。真っ白いクロスのかかったテーブルが出ていて、花まで飾られていた。八重咲きの、ふるふると波立つ花びらを持ったきれいな白い花に見とれていると、痣輪はそれを、チューリップだと言った。そんなチューリップは知らなかったのでしげしげと見つめると、たしかに花びらの中、めしべの形は言われたとおりだった。
「すごいね、きれい」
「そうだねこういうの、珍しいよね」
 心持ち、いつもより痣輪も楽しそうで、よかったと思う。数人の懐かしい顔たちがそこかしこで久しぶりだねという挨拶をしていたり、はじめて会う人同士なのだろう、紹介をし合ったりして、柔らかな、いい時間だった。午後過ぎの光が、細い窓から入ってきて床を均等に切り分ける。向こうに糠田とまらるめが並んで立っているが、こちらには気付いていないようだ。あの偶然会った日から、結構経っているような気もするけれど、お腹はまだぺたんとしていた。九月は、いるとは思っていなかったがやっぱりいない。会いたかったわけではないのだけど。
 そろそろと促されて席に着くと、会場にいたのは三十人を上回るかくらいで、細長いテーブル二列に収まってしまった。 
 知らない音楽がかかってドアが開き、目野方と水ヶ谷が手をつないで出てくる。目野方はいつものとおりにけだるそうな顔だが、水ヶ谷は喜色満面という言葉がぴったりくるような笑顔だ。今まで見た中で一番幸せそうな表情。ぽーんと明るい音がして数人がクラッカーを鳴らす。火薬の匂い。制服を着た店員たちが紙リボンをくるくると巻き取っていく。
「みなさん、今日は我々のために集まってくださってありがとうございます。今日から結婚ということになります。まあ、飲んで食べてください。」
「本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしく」
 目野方が、マイクを受け取って一本調子に喋って、それに横から口を寄せ水ヶ谷が微笑みながらささやく。みんながいっせいに拍手をして、ずいぶんにぎやかだ。なんだか、眼に入る光が一時的に増えたみたいに、すべてがきらきらして見える。
 みんながきれいな服を着て、笑い、喋り、こまごまとした、おままごとみたいな小さなサンドイッチやケーキがどんどんと並べられ、写真を撮ったり、大きいカメラを振り回しているのが十年ぶりぐらいに会う知り合いだったりして。いいにおいのする水、甘いお酒。いちごの香り。金箔の飾られたチョコレート。すべてが満ち足りて不思議なほどだった。
 さやさやとした囁きのなかで、少しいがらっぽい響きのある声がした。糠田だ。
「久しぶり。やっと会えた、ねえ、あのメールの話、聞かせてよ」
「またそれ?今日はお祝いだよ」
 そう言うと周りのみなが笑った。おい仕事はそれくらいにしろよと誰かが糠田を突く。笑い声、糠田も私もそうする。
 大方目野方が嫌がったのだろう、普通の結婚式にあるような出し物や、親への手紙などというものはなく、おいしいご飯と、にぎやかな話し声だけで、時間は素直に早く経っていき、お開きということになった。
 何人かのグループに分かれて、散り散りに夜の街にきらびやかな格好の人間が吐き出されて行く。その姿はすぐに、沢山の人に紛れて見えなくなる。私たちがさっきまでどこでなにをしていたのか、この世界には特に関係がなくて、私はそれは、やさしいことだと思う。
 横にいた痣輪が、二人とも嬉しそうだったね、と言った。私は頷く。心からそう思ったから。
「なんか、多分、今日は世界中の中でもかなりあの二人の主役度数が高かったね」
「そうだね、結婚式だものね」
 そう答えると、痣輪は不意に立ち止まった。人にぶつかってしまうと、私はそればかり気になる。
「あのね、私、なんだか前からずっと、私って脇役だな、って思ってたんだ」
「そんなの、私だってそうだよ」
「ねえ、私の人生ってどこにあるんだろう。私が、主役になれることって、あると思う?」
 そんなことを考えていたのか、と思って、私は少し驚いた。そして、言った。
「多分ないよ、私たちはずっと脇役だよ」
「嘘だ、あんただって、砂漠からメールがくるじゃない」
「あれは、私にあてたものじゃないよ」
「間違いでも届いた」
 この話はもうやめよう。私はそう言いかけて口ごもる。私ににはそれを言う権利がないと思った。
「ごめんね、私、ちょっといろいろあって、いらいらしてた」
 痣輪はそう言って、なにか続きを言いかけて口を開きかけたように見えたが、短い逡巡をしたようで、すぐに閉ざした。私もなにか言いたいのに、なにも思いつかなかった。繁華街の、人の声や、光が不意に遠ざかって、二人で、ぼんやりと浮いたような感じになって。こちらを見ている目に、看板や街灯が映って、沢山の光の粒がきらきら、輝いているのが、きれいだと思った。しばらくそうしていて、なにも言わずに痣輪は後ろを向いて歩き出す。私はそれを追うこともできずに、ただ見ていた。

 それから痣輪に連絡もできず、向こうからなにかがあるわけでもなく、少しの時間が経った。私は相変わらず仕事をしていて、いろいろなものを倉庫や他の会社から取り寄せて、別のところに送ったり、お弁当を作ったり、たまには会社の人たちと食事をしたりしていた。
 ある日、郵便受けに一つ、茶色の包みが入っていた。私がそれに触れると、封などはされていなかったらしく、ぽろりと小さな瓶がそこから滑り落ちた。落ちながらそれは太陽の光を浴びて輝く。割れることもなく、ころりと転がり、私のつま先に当たって止まった。拾い上げ、光に透かすと些細な傷がついた表面が、光を乱反射する。私はそれをそのまま、ポケットに入れた。その中でそれは暖かく、微かに熱を持っているようだった。長い長い間砂の海を漂ってきたガラスの瓶の、表面の細かな擦り傷。柔らかな光。
 私はそれを知っていた。きっとこれはあの、いつかメールに書かれていた瓶だ。メールを貰い始めてから長い年月がたって、はじめて私の手元にやってきた物体は、ただ、それだけだった。
 これも誤配なのだろうか。私は不安になる。持っていてもいいのだろうか。ただ、私の手元に届いてしまったのだから、仕方がない。私はそれを、家の小さな棚、というもおこがましいような積まれたカラーボックスの端に置いた。なんとなく、夜が明けて朝が来たら、消え失せてしまっているのではないかと思っていたけれど、寝て起きてもそれはそこにあって、朝の光を静かに反射していた。
 その輝きは、私の目の中に残り、家を出てからも微かにちらちら燃えていた。熱を持たない静かな炎は揺れて、網膜を焼き続ける。職場でも、なんだかその日は蛍光灯がやたら明るくて、私は白いオフィスの中でずっとふらふらとしていた。
「コピー、壊れたんですよ」
 同僚がなぜか私の方を向いて言った。紙が詰まってるんじゃない?と答えて私は立ち上がる。 
 これはFAXとの複合機なので壊れると仕事にならない。周囲からも何人かの社員たちがやってきて、いろいろとした後、全員がお手上げという感じで去っていった。
 しばらくすると誰かが総務に連絡したらしく、修理の業者が来るからしばし待つように言われた。私たちは急に仕事の大半を失って、数こそそこまでではないがメールで届く依頼をこなし貯めていた優先順位の低いものや、そのあたりの片付けや、他の部署の手伝いなどをそれぞれした。そうしていると修理の人間がやってきて、またあれこれをして、結局直ったのは夕方だった。どばどばと吐き出される紙を私たちは笑いながら見て、仕方がないから全員で残業をした。誰かが職場でもピザが取れると言い出して、全員に希望を聞いて回って、一番面倒がなさそうなメニューを選んだ。
 やってきたピザは私が今まで見たことのないくらい大きなサイズで、しかも三箱もあった。
 会議室が開けられて手早くそれは広げられ、全員が飲み物をどこからか調達し、いざ、という感じでおもむろにピザが取られた。きれいな芸術的な細工が施された爪、無骨な手、銀の腕時計、関節が浮き上がった指。それらがすべて軽やかな素早さでピザを摘み取り、チーズがにょーんと伸びるのを見ていた。
 ぼんやりしていると、食べるように促されたので私もそれを取った。すると上に載ったすべてが滑り落ちて、紙の上にどさどさと取り残された。それを見て周りの人間が笑ったので、私もつられてそうした。そうしていると、なんだか面白い気がしてきて、ずっと笑っていた。その日はそこからしばらく残って帰って、次の日も、その次も忙しくて。週が終わるころにはぐったりと疲れていた。気分転換がしたくて、真っ直ぐ帰るのを止める。乗り換えの駅で改札を出て、しばらく歩いていると、以前痣輪と一緒に行った雑貨屋が近いということを思い出した。なんとなく、その方向に足を向けると見覚えのある雑居ビルに出た。着いてしまったから仕方ないので、階段を上って店に入った。もし開いていなければ帰ろうと思ったのだけど、そうではなかった。
 店は以前来たときと、多分変わっているのだろうけれど私にはよくわからなかった。前と同じ席に座ると、差し出された水のコップまで同じで笑ってしまった。薄く、小さなそれは金の縁取りがしてあってきれいだった。透明な水に、もっと透きとおった氷が浮いていて、複雑な凹凸に光が反射してきらきらと光っている。じっと見ていると不審に思ったのか、店員が声をかけてきた。
「きれいでしょう、それはトルコのコップなんですよ」
 その口調がまた以前の説明と同じだったので少し面白くなった。そうなんですか、と私は言い、口にそれを運んだ。水は微かにレモンの味がした。
「今日はなにか探しにいらっしゃったんですか」
「ああそうですね。なにか、これくらいの瓶が入るようなケースというのはありませんか」
 手で大きさを指し示しながら私は、そうかこれを買うためにここに来たのだな、と思った。店員は小さな本に似せた箱だとか、きれいな貼箱だとか、鳥かごのような竹ひごの瀟洒な入れ物や、上面がガラスになった標本箱だとかをいろいろ出してきて、私は家に置いてきた瓶を頭に思い浮かべながら指先でサイズを計り、手のひらより少し大きい標本箱を一つ買った。店主はそれを薄紙で包みながら、これはいいものですよ、とか、フランスの標本屋のものなのです、などと言った。しっかり包まれて茶色の紙袋に入ったそれを、脱脂綿をサービスしておきましたからなどと言われながら受け取って、礼を言った。
 紙袋の持ち手には銀色と、生成りの細いリボンが結ばれていて、まるで気の利いたチョコレートかケーキでも買ったようだった。あまりにも丁寧だったので、こんな小さな買い物でしっかりと包まれているのが、なんだか割に合わないような不思議な気持ちがした。
 家に帰り着き、リボンを解き、紙袋の口に貼られたテープをはがし、薄紙でくるまれたそれを取り出し、また留められたテープをはがし、箱自体をさらに包む厚紙の箱を開け、さらにその中に巻かれた薄紙の帯をはがした。そうしてやっとその小さな標本箱を取り出して、恭しくそれを開き、小さなガラス瓶を脱脂綿に埋めて、ガラス張りの蓋を閉めて、カラーボックスの上に置いた。なんだか私の家でなくて、そこだけあの店が出張してきたようで変な感じだった。その夜、私は久しぶりにまらるめの出る夢を見た。
 夢の中は夜の砂漠で、ところどころにガラスの塊が落ちていた。私はいつか聞いた砂漠のそれだろう、と思った。不思議なことにそれはきれいな手足や、乳房の形を模していたが、夢の中の私はなんとも思わないのだった。空は晴れていて、細かい、針先で夜空を突いたような星がちらちらと光っていた。
 歩いていくうちに、不透明の腕が一本地面から生えているのを見つけた。二の腕から先がすっくと伸びていて、関節のところは自然に軽く折れ、しなやかに開いた手のひら、磨かれた爪先が内側から光っているように輝いている。私はそれを見て不意に、これはまらるめのものだと理解をした。白々としたそれを前に、私は膝を折り、しくしくと泣いた。涙が地面に落ちて、砂がそこだけ少し濃い色になった。それ以外の変化はなにもなかった。空の上では静かに星が光っていて、月はなかった。私は不意に、この腕こそ本当の彼女そのものであり、さらに今空から失われている月であるということがわかって、先ほどにも増してわんわんと泣いた。本当に、悲しかった。

 目が覚めたときに、私の頬を実際に涙が濡らしていた。一体どれだけ泣いたのだろう、枕にかけていたタオル地のカバーまでずいぶん冷たくて、馬鹿みたいで笑ってしまった。のろのろと身を起こし、鏡で見た顔はものの見事に目が腫れ浮腫んで、どうしても会社に行きたくないと思った。別に、泣きはらした顔を見られたくないなど思わないのだけど、その顔があまりに別人のようで、私は自分の体を上手く操る自信がなくなってしまったのだ。気だるさと戦いながら、私はもう一度のろのろと寝床に戻り、普段なら会社に着いているであろう時刻にアラームをセットしてもう一度眠った。目を覚ます。液晶の上にあてずっぽうで指を滑らし、それを止める。メールが来ている。そのまま片目でどうにかこうにかアドレス帳を開く、電話をかける。取り上げられたそれにどうしても出勤できない旨伝える。
 熱がある。これは嘘だ。測っていないからわからない。ガラス、無機質な文字の向こうからずいぶん親身に心配してくれるような声が聞こえる。礼を告げて、それを切った。
 夢も見ずに、私は眠った。ものすごく細かい砂の中に沈んでいくような夢だった。水より温く、泥より固い。砂時計の下の段にさらに下があって、砂に埋まりながら引き込まれるような感覚。質量のある眠りだった。
 何度か目が覚めたけれど、遮光カーテンのせいで今ひとつ時間などはわからなかった。私は獣のようにトイレに行き、そのように水を飲んだ。それはただの気分で、動きは実際にはのろのろとしただけのものだったが。明確に意識が浮上したとき、あたりは真っ暗で、カーテンをめくって外を見れば、ものの見事に夜になっていた。私のお腹はぐうと鳴り、なにか食べたいと思って冷蔵庫を開けてみるが、こんなときに限って手をかけずに食べられそうなものはなにも見つからなかった。静かに冷えているピーマン。半分になってラップに包まれている白い玉ねぎ。鶏がらは瓶越しに見える細かい粒が、なんだか薬のようだった。冷凍庫も開けてみる。ご飯が凍っている。冷凍食品もある。自分で作った弁当用の凍ったおかずもいくつかある。電子レンジにかけたかぼちゃを潰してバターと醤油をまぜてラップで包んだもの。豆腐と鶏ひき肉のハンバーグは小さな楕円になって、ジップロックの中で身を寄せ合っている。
 色々なものがあるのに、私はそれらの中で食べたいと思うものが何一つ見つからなかった。脱ぎ捨ててあった服を寝巻きの上に着て、財布と鍵だけを持ってよれよれと家を出る。重たい体を引きずってエレベーターに乗り、外に出てすぐ傍のコンビニを目指す。夜の街は、全てが私に関係なかった。ずいぶん冷たくなった風がぴゅうと吹いて、偽物のクロックスを履いている足がひやひやとした。目に見えるもの全てが夜の色をしている中で、向こうにあるコンビニのあかりだけがさえざえと純粋で、そこにたどり着くものすべてを祝福しているようだった。自動ドアが開く。音楽が鳴る。やったあ、やったあ、と私は自分を称える。
 コンビニを一周したところで、私はまた困ってしまった。ここにも食べたいものはなにもないということに気がついてしまったのだ。もう一回、ゆっくりと周っていく。雑誌の横、ATMの前、人間、三種類のボールペン。本当に誰かここで買うのだろうか香典袋、猫缶、小さな形に縮んだ口紅、保存食。簡素なパッケージの菓子、派手なパッケージの菓子。人間。絵に描いたようなショートケーキ、大きなプリン、アイスのケース、弁当、人間、うちにあるのとおなじ冷凍食品、菓子パン菓子パン惣菜パン、無理やり多すぎるいくらを詰め込まれたおにぎり、粘土細工のようなサンドイッチ。弾丸のように並ぶペットボトル、アルミ缶。
 なにも食べたくはなかった。けれど真夜中のコンビニに来て、なに一つ買い物をしないことはおかしいと私は思った。入り口に戻り、小さなかごを取りさらにもう一回すべてを見て周り、そういえば毛羽立っていた歯ブラシと、会社で食べられそうな雑穀の入ったビスケットと、みかんの入ったゼリーと、サラダチキンと、野菜ジュースと、筋の入っていないメロンパンを入れて、レジに向かう。いつからか始まっていたおでんが湯気を上げていてこれを食べるべきだったのではないかと思ったが、妙に白く、大きくぷかぷかと浮いているはんぺんを見て、違うと思い直してそのまま会計をして、店を出た。また音楽が鳴ったがそれは私を祝ってはくれなかった。
 家に帰って、すべてを冷蔵庫に放り込んで、またなにを食べたらいいのかわからなくなって考え込んでしまう。とりあえず、ゼリーを出してみた。袋の底にプラスチックの、透明なスプーンが入っていたので、包装を破いて蓋をはがし、それに突き立てる。冷蔵庫は微かにうなり声を上げている。淡く色のついた一塊が、浮かび上がる。震えている。私はそれを口に入れる。みかんの味というか、みかんゼリーの味だ。缶詰のみかんがより近い。死んでしまったみかんの味だ。私たちが口にするものはすべからく死んでいるのだけど。
 私は無心でそのゼリーをわしわしと食べた。透明なくぼみはすぐに大きくなり、落ちる途中で留まっていたみかんの果実もすべて私の口の中に消えた。食べたような。食べていないような。よくわからない。わたしはゼリーの容器を流しに置いた。洗うのも捨てるのももう明日にしようと思った。歯磨きをするのもだるかったけれど、子供のときからの性分で、それをしないことには眠れないのだ。歯磨き粉をなんとかブラシに塗り、廊下に座って歯磨きをする。廊下は、なんだか長く見えた。
 そうやってなんとか眠った。起きてみると熱が出ていた。ありがたいことに仕事は休みの日で、私は菓子パンを食べ、また歯磨きをして薬を飲んでこんこんと眠った。夜、まだぼんやりするが、大分気力は戻ってきたようだった。出汁パックを湯の中に放り込み、冷凍してあったご飯を解凍して湯の中でしばらく、ぐつぐつとやっていた。塩を入れてその適当なお粥を食べてまた眠った。次の日もだるかったがましにはなってきていた。外に出る気はしなかったので相変わらずお粥のようなものを食べ、薬を飲んで寝ていた。着ていたと思ったメールは見間違いで、砂漠のものではなく、糠田から今度会って話を聞かせて貰えないだろうかというもので、それには曖昧な返事をしておいた。
 そうしてなんとか熱を下げて、会社に出てみるとなんとなくみんなよそよそしい感じがして、どうしたのか、と尋ねても曖昧にごまかす。原因を特定することができずに過ごしている。週末に休んでしまったので仕事が溜まっていて、同僚がいくらかはやってくれていたようだが結構な分量になっていたのでそれでばたばたと忙しくして、そのうちその剣呑な感じも忘れてしまった。
 
 それから、なんだか暑くなったり、寒くなったりいくらか日が経った。毎日仕事をして、休みの日には寝て過ごしたり、大学のころの友達に呼び出されたり、故郷から友達がやってきて会ったり、いろいろなことが起きた。痣輪には会うことはなかった。もともとそんな感じなのだ。私たちのどちらかが、どちらともなく会おうと連絡をし、都合が合ったら、という感じで、半年ほど間が空くことも珍しくないし、毎週末会うこともあって、それで別になにかあるわけではないのだけど、会えば気が合って、色々話すことがなくても、一緒にいれば過不足のない時間が過ぎるという感じだった。私たちももちろん人間なので、たまには細かい諍いがあったり、今のように会うのにちょっと、心の重さみたいなものを感じることは今までにもあって、おおむね時間でそれらは解決されてきた。
 私はもう、誰かに深入りをして、あれやらこれやら言うのは、正直少しだるいと思っている。もちろん今までに、痣輪より仲のいい友達や、恋人などがいなかったわけではないし、今後もできる可能性はないわけではないと思っているが、ゆるくつながっている人間がぱらぱらといて、肉親は近くないあの町におり、私はこちらで普通に仕事をしている。この感じはあまりにも気が楽すぎて、結婚もせず、一人で死んでいくその、ほのかな明るさ、ずっと先まで薄明かりで照らされた道の上は、平坦で、すてきに見えた。
 私は自分の部屋を見る。箱のようなワンルーム。奥に畳まれたマットレスがあって、その横に小さいカラーボックスが積まれ、据付のクローゼットの中には、少ない服がかけられている。小さな冷蔵庫には、まるでままごとの道具のような冷凍食品と作りおきのおかず。白い洗濯機、IHの一口コンロ。ユニットバスは割合に広くて気に入っている。足を伸ばせるほどではないものの。透ける布のカーテンの向こうに空があって、青くなったり黒くなったり白くなったりする。過不足がない、と私は思う。カラーボックスの奥、ガラス瓶を押し込んだケースが光っている。これ以上何を望むことがあるんだろうか。もっとお金を?それとも結婚相手、心からすべてを話せる友人、やりがいのある仕事、打ち込める趣味。別にどれも欲しくなかった。
 なぜか泣きたいと思った。しかし、涙は出なかった。何もかも、充分だと思った。カーテンは揺れている。どんどん寒くなってくる。私は窓を閉めた。網戸で解像度が低くなっていた夜景は模様入りのガラスの向こうで、光の点になって消えた。
 どんどん寒くなってきて、このまま冬が来るのだと思っていたところで、台風が来るという。最近は、どの季節でも構わずに台風が来るね、昔は、野分なんていって秋の季語だったんだけど、と会社の年寄りが言うが、別に五月でも、九月でも、十一月でも来るときは来るのだから、不思議な話だと思った。
 台風はどんどん大きくなって、この街にもやってくることはほぼ確定になった。出勤になるか休みになるか、なんとなくみな浮き足立ってざわざわとしていたが、結局会社は営業ということになった。他の取引先もやっているからという話だったが、それならせーので休まない限り、誰も休めないのではないかと思ったけれど、私たちのような平社員にそんな発言権はない。粛々と仕事をしていった。
 いつも通りに出勤したのに、会社の中はなんだか薄暗くて笑ってしまう。みんな明らかに活気がなく、前の席に座った同僚はしきりに頭が痛いと呟いていた。休みにすればいいのにね、そうだね、と頷きあいながらも朝礼が始まる。なぜか日替わりで一人ずつしなければいけない小話の担当者はその頭痛の同僚で、可哀想に明らかに顔色が悪い。適当な話をして、私たちはばらばらと自席に帰り仕事を始めた。
 他の会社もやっているから、という話なのに明らかに発注の依頼は少ない。いつもどおりに進めてしばらく経ち、これだと早く帰れちゃうんじゃないの、と誰かが笑ったところに、スマートフォンがいきなり大声で騒ぎたて始めた。
 ほとんどはロッカーから喚いていたが、誰かがポケットから取り出す。読み上げられる声は、老人に避難を薦める内容だった。
 これ、やばいですよね、誰ともなしに言う。でも帰ってもいいよって言われたわけじゃないから、仕事、仕事、と年配の同僚がわざとらしく手をぱんぱんと打ち、全員が緩慢な動作で席に戻っていく。
 昼も過ぎて、しばらく身が入らない状態で手元の作業を続けている。営業の人間が一人、血相を変えて飛び込んできた。どうしたのかと思って聞いていると、同僚が担当している荷物の一つが台風のせいで遅れているのだという。
「台風じゃ仕方ないですよ。そもそも発注も遅かったですし」
「仕方ないのはおれはわかるけど、向こうはわかってくれないんだな」
 結局メーカーに連絡をして、営業が取りに行き直に持っていくということになった。そんなに急がなくてはいけないものがこの台風の日にあるということがもはや信じられなかった。そんなやり取りをしていると珍しく総務の人間がやってきて、上司と短い話をしている。
「これからもっと風も雨も酷くなるって、家の遠い子から帰りなさい」
 先ほど、トラブルに巻き込まれた同僚があからさまに嫌そうな顔をする。
「私、実家なんで電車一時間半なんですよ。帰れなくなっちゃう」
 どうも先ほどの話でもう少し連絡しなければいけないところがあるらしい。聞けば私もまったくわからない内容ではなかったので、それを引き継ぐことになった。嫌だけど、私は一人暮らしで、そんなに離れていないところに住んでいることをみな知っている。家が遠いもの、保育園に子供を預けているもの、さまざまな事情のあるものから先に帰る。まあ当然だ。上司は私にずいぶん悪そうな顔をしたが、正直そんなことは何も気にならなかった。仕事を代わった同僚も、すみません、今度ランチおごりますね、ありがとうございます、とそれなりに申し訳なさそうな声を出して帰っていった。
「いいよ」
と、私は言う。
 仕事自体は連絡をして、折り返しを待って、と、一時間もかからなかった。電話をした向こうもそっち台風なのに大変だね、などと人間らしい対応で、お礼を述べて全部が終わった。車に乗って出かけた営業の携帯電話にメッセージを吹き込んで、それで大丈夫だ。電話を置いて顔を上げると、そこまで広くはないフロアで、普段はそこそこの人数がいるのに、今は私を入れて数人しか残っていなくて、なんだかがらんとして不思議な感じだった。蛍光灯の白い光があたりを隅々まで照らしているのに、窓の向こうは塗りつぶされたように真っ暗だ。なんだかんだとやっているうちに、本来の終業時刻まで一時間もないくらいの時刻になっていた。私が終わるのを待っていたのだろうか、上司が、さあ早く帰りなさい、と言った。促されるままに支度をして、会社を出る。普段そう遠いとも思わない駅までの道で、豪快にずぶぬれになってしまった。傘をさしていても意味がないほどの、まさに豪雨という言葉がぴったり来る状況に笑ってしまう。
 仕方がないのでそのまま電車に乗る。ほどほどの混み具合で、みなぐったりした顔をしていた。
 スーツ姿のおじさんの顔にも髪の毛をピンクにした女の子の顔にももう勘弁してくれと書いてある。こんな日は朝、布団から出るべきではなかったと思う。いつもの乗り換え駅も人ごみまではいかないがそこそこの人数がいて、一体どうなっているのか、不思議になる。私が乗るものではないのだが、どこかの電車が止まったらしく、振り替え輸送はこちらです、と大きな声を上げている駅員もいる。大事になった、と思う反面、なんだかわくわくとした感じもある。
 人ごみの中に見なれた顔があることにふと気がついた。見ると結婚式ぶりの水ヶ谷だった。向こうもこちらに気がついたようで、手を振りながら近寄ってくる。
「どうしたんですかこんなところで」
「会社が早く終わったの。台風でしょ」
「へえ、そんなことあるんですね」
「うん、私もだいぶいるけど、今回がはじめて。水ヶ谷はどうしたの」
「この雨で帰れなくなっちゃって、電車が止まってしまったから。実は、この近くに目野方が使ってたアパートがあって、狭いけれどそこに泊まろうと思ってるんです。よかったら、来ます?いつ他の電車も止まるかわからないですし」
 一際雨音が大きくなった。駅の中にいるのに、何か大きなものが転がるような、がらんがらんという音が外からした。特に断る理由もなかった。
 近いけれどもう乗っちゃおう、と水ヶ谷が言い、私たちは黒いタクシーに乗り込んだ。すべすべつるつるの表面は雨のせいでより不思議な色に見えた。光が線を描いている、模様に見える。すみませんワンメーターでと水ヶ谷が詫びると、気のよさそうな老人の運転手が、いいんですいいんです、こんなときはお互い様でしょ、と言った。なんだか今日はみんな親切だなと私は思った。こんなに冷たい雨が降ると、人にやさしくしたくなるのだろうか。
「ちょっと手前になるんですけど、コンビニに寄ってから行きましょう。下着とか、換えますよね。シャワーとタオルはあるから、他のもの買ってください」
 そう言う水ヶ谷の声はとても柔らかで、車のエンジンの音にまぎれていく。
 車は滞りなく走り、ワンメーターより少し先へ行ったところで止まった。私たちはすでに重たくなっている服を引きずるように降り水ヶ谷が指差すコンビニに駆け込む。店の中は途方もなく白々と明るかった。私が前、夢を見た後に行ったコンビニよりももっときれいで、何もかもが美しく行き届いているように見えた。
 私はそこで細かなものや歯ブラシ、下着などを買い込み、水ヶ谷のところに行って持っていたペットボトルやパンなどを一緒のかごに入れさせる。最初は遠慮をしていた水ヶ谷も、泊めてもらうのだからと私が押し切ると、納得したようだった。
 そこからマンションまではたしかにそうたいした距離ではなかったが、なにせ大雨の中で、気を抜けば吹き飛ばされるのではないかと私は真剣に思ったほどだった。たどり着くとまずシャワーを浴びてくれと薄いタオルとTシャツにハーフパンツを渡されて狭いシャワールームに通される。ごめんなさい、嫌かもだけどちゃんと洗ってあるから。そう言われて私は首を振る。
 乾いているだけで、何よりありがたい。湯船はなく、かかるだけの場所だ。それでも熱い湯が出てくるだけでずいぶん助かったような気持ちになる。水ヶ谷も冷えているから長居するわけにもいかない、急いで出る。バトンタッチのようにして入れ替わる。ばたばたとして、やっと人心地がついた。
「ごめんなさい、ここ、もともと何もないんですけど今は本当にからっぽで」
 お茶飲みますか、と言われて頷くとペットボトルのジャスミン茶をコップに注いで電子レンジにかけて、それを渡してくれる。ドライヤーもないんです、と申し訳なさそうにするのを、エアコンが効いてるだけで天国だよと言って。
 水ヶ谷は微笑を浮かべたまま、先ほども言ったけれどと前置きして、ここは一年ほど前まで目野方が住んでいたこと、今は二人で住む部屋に引っ越したのだが仕事が忙しいときに便利なのと、場所はいいのだけど流石に狭いせいで家賃は安いとのことで、そのままにしているのだというようなことをつとつとと口にした。
「でも、引き払うつもりで、荷物を移しているところなんです。ほら、ここがあるって思っちゃったら、そのうちに家に帰ってこなくなりそうじゃないですか」
 そうやって笑っている水ヶ谷は、とても楽しそうだった。まだ新婚なのだから、当たり前といえばそうなのだけど。つい、幸せそうだね、と、聞くと、そうですね、と言った。
「この部屋から目野方を引っ張り出しただけで、こんなに幸せなんですよね」
 外の風雨の音はまだすさまじい。小さなローテーブルと、普通の大きさの布団を敷くだけでいっぱいになった部屋は、がらんとしていて、連れ出された方もきっと幸せだと思った。
 ご飯食べましょうか、ろくなものないですけど。そう言われたけれど、コンビニで買ったものを並べて、電子レンジで解凍して、部屋にあった紙皿に並べるとそこそこの見栄えがするようになった。コンロもシンクもない家で、目野方はどうやって暮らしていたのかと思ったが、こんなふうなやり方ならたしかに生きていけそうな気もした。
 ビニールで包まれた割り箸を取り出して。二人で顔を付き合わせて、いただきます、と言う。こんなに小さなテーブルがあるんだというくらいの、その上は食べ物でいっぱいになる。おにぎり、それぞれのスープ、小さなサラダ。水ヶ谷の形のよい手がビニールの紐をぺりりと引っ張り、白い米にぴしりと海苔が巻かれた。巻くの上手いね。上手いとか下手とかあります?あるよ。そう言ってやってみる。私は生まれてから一回も、この端に海苔を残さずに巻けたことがなかった。端に飾りのように三角の黒が残る。ほらね、と笑う。水ヶ谷はへえ、目野方もそんなになったことないですよ、と言う。
 コンビニで売っている食べ物は、コンビニの味がするけれど、でも、年々よりよいコンビニの味になっていると思う。私が買ったミネストローネの中には、大きいベーコンや、豆まで入っていて、自分で作るよりうんと上等な仕上がりだ。お弁当を作るのをやめたら、台所も要らないな、と思った。こんなに小さな部屋でも、人は暮らせるのだ。ただ、ここに住んでいた目野方は水ヶ谷に連れ出されたが、私なら、きっと誰もやってこない。そのように生きているから。
「そういえば、痣輪さんのことなんですけど」
「ああ、たしか痣輪もね、うまいよ。おにぎりの海苔を巻くの」
 私がそう言うと、水ヶ谷は少し変な顔をした。
「そうじゃなくて、最近会いましたか」
「そうだな、結婚式以来会ってない」
 そう言うとますます変な顔をした。どうしたの、と聞くと、けんかでもしましたか、と言った。
「けんかなんかしてないよ。私たちたまにあるんだ、なんかちょっと上手いこといかなくなって連絡しないとき。まあ、半年も経てばどっちかから連絡するんだから、大丈夫だよ」
 白いプラスチック製のスプーンはスープを飲むのには少し使いづらい気がする。これがぴったり来るのは、多分、カレーとかだ。水ヶ谷は俯いている。私はぜんぜん関係のないことを考えていた。知り合ったとき、水ヶ谷は一体どんなことをインターネットに書いていたのだろうかということだ。それを尋ねようと口を開きかけると、逆に訊かれた。
「痣輪さんと、なにか話、しましたか」
「たいしたことはなにも」
 私は痣輪の、結婚式の後のあの醜態のことを言いたくなかった。何か、あのときはすごく辛そうで、多分私が知らないことで、苦しんでいるのだろうと思ったからだ。知らないことは、何も言うべきではない。
「たいしてないことはあるんじゃないですか」
「いや、だって、それは私にも水ヶ谷にも、関係ないことだよね。痣輪も、なかなか大変そうだし」
 それを聞いて、さらに水ヶ谷は不思議な顔をした。
「大変ってどういうことですか」
「いや、なんか、考え込むところあるじゃん。可哀想だけど思いつめすぎだよね」
「なんだか痣輪さんを、少し、見下していませんか。……可哀想だなんて」
 いや、実際、と言いかけて私は続ける言葉を見失ってしまう。どうしたらいいのかわからなかった。可哀想か、たしかに思った。自分は主役ではないと言うのを見て。私も、そう、なのに。私には、メールがくると痣輪は言った。それは、なんだかとてもさみしい声音だった。そう思ったのも、なにか、酷いことだったのだと、私は静かに理解した。雨が、染み込んでくるのにも似ていた。
「でもね、砂漠が」
 三百年後の、砂漠からのメールが私に届くのが、特別だと、痣輪は言った。そして、瓶も私の手元へやってきた。それが、あるから、私は他のものを欲しがらずにやってこれたのだと思った。私は、きっとすべてが羨ましかった。才能のある九月のことも、美しいまらるめのことも、相変わらず書き物に熱心な糠田のことも、お互いをきちんと大切にできた目野方と水ヶ谷のことも、飄々として芯があって少し繊細で、新しいものを見つけて来る痣輪のことも。それを、長い時間をかけてだんだんと、特別でなくしてきたのはきっと私自身だ。
 水ヶ谷は私をじっと見ている、それから、目をそらすことができない。
 私は酷いことをずっとしていたのだと思った。だけど、それ以外にできることはきっとなかったと思う。それが、言い訳だというのもわかる。どれだけの時間、白いスプーンを片手に私は止まっていただろう。数分だったかもしれないし、一時間ほどもそうしていたかもしれない。私が、今までやってきたこととは?
 見かねたのだろう、水ヶ谷がなにか飲みますか、と聞いてくれた。私はお茶を、と言った。そしてゆっくり、目の前にあるものを平らげて、手渡されたコップの中のものを、時間をかけて飲んだ。ジャスミンティーを、最後に茶葉で飲んだのはいつだっただろう、そんなことを考えている。たしか、痣輪と行った中国茶の店で飲んだ。見た目の美しい工芸茶。ガラスのポットの中で花開くのだ。私はぽつぽつと、痣輪の話をした。一緒に行った場所、好きだと言ったもの、一つずつ、思い出して、痣輪がいなければ、私の人生の、一点がたしかに欠けるのだということを確認していった。
 いつの間にか、窓の外はずいぶん静かになった。先ほどまでの暴風雨が、嘘のようだった。
 水ヶ谷ががらりと窓を開けた。身を乗り出して、ビルの合間から空を見るようにしている。
「月が出ていますね」
 スマートフォンを見る、終電まではまだ一時間ほどある。バスはもうないが、タクシーでもたかが知れているし、晴れたのだったら歩いて帰ってもいいだろう。帰ろうかな、と言うと、いてもいいんですよ、と水ヶ谷は言った。私は頭を振って、明日も仕事だから、と答える。そうですか。うん。
 水に濡れた服を着ようとすると、こっちの方がましでしょうとジーンズを貸してくれた。サイズは合わないが、コートの下なら大丈夫そうだった。
 お礼を言うと、水ヶ谷は笑って、気にしないでください。と、言った。
「痣輪さんと、仲直りできるといいですね」
「そうだね」
 水ヶ谷のように、なりたいと思った。やさしい、きれいな人間。目野方でもいい。そんな人を横に置いて。でも、なれない。なるためのことをしてこなかったから。
「ねえ、水ヶ谷って、いい人間だね」
「なんですか藪から棒に。でもありがとうございます」
「水ヶ谷みたいな人って、誰か嫌われたことなんてないんだろうね」
「そんなことを思うのは、私たちががあまり親しくないからですよ」
 そうか、と思った。そうなんだろうな。と。なんとか電車に乗れるように格好を整えてから、私は礼を言って、その小さなアパートを後にした。たしかに、空の真上から少し下ったところに、三日月よりもう少し太ったような月が出ていて、足元に広がる水溜りの中にも明るく輝いていた。
 さっきのコンビニまで、本当に歩きなおすと短い距離で笑ってしまった。数時間しか経っていないのに、風こそ少しあるものの、雨は一滴も降っていない。駅までも近かった。
 駅の中はさっきと同じ位の人出で、本当に私はあのアパートに行って、ご飯を食べたのか、わからなくなった。
 帰りの電車もみんな静かで、本当に台風が来ていたのか、疑わしいくらいだった。最寄り駅からタクシーを捕まえて家に帰り着いて、デニムを履いていたので、ああ、夢ではなかったのだな、と思った。
 自分の部屋のあかりを点けるとなんだかどっと疲れてしまった。風呂に湯をためて、ゆっくりと入る。台所は別になくてもいいと思ったけれど、やっぱり湯船は欲しい。その日は髪の毛を乾かすことすら煩わしく、すぐに眠ってしまった。
 仲直り、という表現は、いかにも子供っぽくて、少し恥ずかしい気もしたけれど実際私のやっていることと言えばいかにも稚拙だった。連絡をしよう、と思うだけで、実際どのように声をかければいいかわからなくなって、時間だけがどんどん過ぎていった。自分だけではもう無理、そう思って、私は次にあのメールが着たら、きっと痣輪に連絡をしようと決めた。そうしてしまうと、少し気が楽になった。今まででの間隔でいけば、きっとそろそろやってくるはず。もうずいぶん届いていないのだから。だが待てど暮らせどそれは届かなかった。仕事も、急にやめる人が出たりして不意に忙しくなって、私はそれに甘えてずるずると時間を浪費し、暮らしていた。
 しばらく経ってから、不意に糠田から連絡があった。あのメールの話を聞かせてよ、と言うことだった。私はもう勿体ぶっても仕方ないと思って、了承した。休みの日、家からそう何駅も離れていないところの喫茶店で、ということで、出向く。
 通りを歩いているときはなんだか時代がかった古い店だと思ったが、地下にフロアが続いていて、なかなか広い店だった。ずいぶん寒い最中だというのに、先に来たらしい糠田はクリームソーダを突いている。こちらに気がつくと、いらっしゃい、と口だけ動かして、軽く手を上げた。
「久しぶり」
「結婚式ぶりかな。まあ、座れよ」
 メニューを取り上げる。それもなんだか時代がかった、ビニールの二つ折りのもので、ただ中に挟まれた紙はぱりっときれいな白色だった。一通り目を通して、ブレンドを頼むと、ずいぶん迷ってそれかと糠田が言うが、無視した。
 話を聞かせてよ、と促されて、私はメールのことを一つずつ喋っていった。学生のころ初めて受け取ったもの、最初は頻繁にやってきたけれど、大体年に一、二回くらいであること、内容に、まったく心当たりがないこと、瓶がやってきたことなどを、かいつまんで話した。瓶そのものもハンカチに包んで持って行って見せた。喫茶店の古めかしいシャンデリアの光を浴びて、瓶は静かに光っていた。さすがにまらるめの夢を見ることは伏せておいたが。それを糠田は聞きながら、小さなメモ用紙にさらさらと書きとめていく。透明の万年筆だった。中に、赤い部品が入っているのが、やたらと目を引く。おおむね話してしまってから、私はこんなところだよ、と言った。頼んだコーヒーはいつの間に冷めきってしまっていた。
「どうするの、こんな話を聞いて」
「ああ、書きもののネタになるかな、と思って。みんなと知り合ってからずいぶんになるし、今のうちに会える人間にちゃんと話を聞きたいな、と思ったんだよね」
 アイスはほとんど溶けてしまっている。糠田はストローでそれを吸い込む。どういう味だったか、と考える。クリームソーダなんて食べたことあったかどうか、それすら思い出せない。
「そうだね、もうあんまり会わない人もいるしね、九月とか」
「あいつ今ドイツだって、うわさだけど」
 そうなの、と言って、誰かは九月といまだにやり取りをしているのか、と思うと胸の奥が少し痛んだ。他にも誰かに会ったの、と聞くと、前、痣輪に会ったよ、と言う。
「痣輪が言ったんだよ。砂漠のメールの話面白いよって。瓶の事も聞いて。でも痣輪の話も面白かったよ」
「痣輪の話?」
「そうだよ、なかなか聞き応えがあったなあ、詳しくは初めて聞いたから」
 どんな話、と尋ねると糠田は変な顔をして、それは自分で聞いたら、と言った。それで話はなんとなくおしまいの雰囲気になって、じゃあここは出すから、と伝票を持って立ち上がってしまう。私もそれに続いて店を出て、駅まで一緒に行くのかと思えば、寄るところがあるから、と違う方向に歩きかける。
「ああ、じゃあまた。まらるめさんによろしく」
 私がそう言うと、糠田は不思議そうに立ち止まった。
「誰だって?」
「まらるめ、さん。妹の」
「そんな名前じゃないよ。まあ、伝えとくよ」
 そう言って、踵を返して歩き出す。そういえば、この名前も痣輪から聞いたのだな。そういえば痣輪に、瓶が届いた話はしてないなと思った。

 またしばらく、私はメールを待っていた。結局来ないとわかりきっていたものを。ある日、家のコーヒーの粉と醤油とオリーブオイルとトイレットペーパーと化粧水が一気になくなり、休みの日にスーパーとドラッグストアを回ってすべてを揃えて帰ってきて、それを所定の位置に置いてしまい、芯やら瓶やら捨てたり洗ったりして、洗濯物を干し、掃除機をかけてやっと、ああ、痣輪に連絡をしよう、と思った。結構な時間が経っていたけれど、またお茶でも行きませんか、というメッセージにすぐにいつにしますか、という返事があった。
 日にちを決めて、場所を決めて、なぜか大きい公園に行くことになった。花見には少し早い季節。もう少ししたらちょうどいいくらいの。よく晴れた日で、木々は気持ちよくさやさやと歌い、噴水は豊かに輝きを放っていた。ゆっくりとした足どりで散歩する老人、おしゃれなコートの人は美術館へ入って行った。ベビーカーを押す若い母親。
 駅から少し離れたところに、痣輪はすでにやって来ていた。
 私が若干の遅れを詫びると、通常運行だね、と言った。そうだね、と私は笑う。まだ冷たい風が吹くけど、日差しのあるところは暖かかった。
「私、痣輪のこと、よく知っているけど、ぜんぜん知らないと思った」
「そうだよ。言ってないからね」
 痣輪はどんどん歩き、気を抜くと少し隙間ができるほどの速さだった。知らないペースだった。早いよ、と私が零すと、そう、ごめん、と言い、速さは落ち着いた。痣輪は俯いて、唐突に私にだってつらいことはある、と言った。それは、別にそうだろうなと思った。だれだってそうだ、私にだって。
「痣輪の話、聞いてもいいかな」
「今更だなあ、嫌だよ」
 そう言って笑うのが、随分楽しそうで、こんな風に笑うのかと思った。目の細め方、やわらかに窪むえくぼの形。私はいつか痣輪と歩いたあの墓地を思い出していた。大きい木が沢山生えていて、ビルなどは見えない。足元は普通の道のようにアスファルトで舗装されていて、横の丹精された芝生には当然ながら背の低い囲いがあるのだった。歩くだけならその辺の道といっそ変わりないのでないかと思ってしまう。
「私、いくつか嘘をついていた」
「私も、沢山謝らなきゃいけないことがある」
 痣輪は立ち止まった。私の目をしっかりと見ながら、それは、もういいよ、と言った。痣輪の目の色は、深く落ち着いたコーヒーの色だった。きれいな色だな、と思った。
「もういい。だから、私も謝らなくていい?」
「いいよ、じゃあ私も謝らない」
 私がそう言うと、痣輪はちょっとだけ手を上げた。何かを引き止めるときの動きにも似ていたが、空気を掴んだだけだった。手を下ろして、じゃあ、もういいかな、と、言った。
「うん、さようなら」
「ああ、ばいばい」
 手を軽く上げて、振ってみせる。さようなら。私の一番の友達、そうしてなんの関係もない人。痣輪は私にくるりと背を向けて、歩き出した。背負われたリュックサックの、四角い形。足の形に添ってたなびく薄いグレーのコート。茶色の髪の毛が、太陽の光に透けている。忘れないでおこうと思った。それをずっと見送っていた。人の中にまぎれて見えなくなるまで、ずっと。
 ここが墓場でなくてよかった、と思った。あんなに気分のいいところだったら、私はそこに座り込んで、日が暮れるまで木漏れ日を見ていたかもしれない。この道がアスファルトではなく石畳だったら。昼過ぎから夕方に移り変わる一番いい時間だったら、ずっと座ってそれを見ていたかもしれない。
 近くで誰かが笑う声が聞こえた。散歩中なのだろう。若い母親が押すベビーカーの中に小さな赤ちゃんがいた。思わず顔を上げて見るが、それはまらるめではなかった。
 目が合ってしまい、少し不審そうに、不思議そうに首を傾げられてしまう。私はとっさに、ああ、すみません知人に似ていて、とごまかすが、彼女には別に似てはいなかった。ああ、そうなんですか、と明らかにほっとしたように母親は言う。
「かわいい赤ちゃんですね」
「ありがとうございます。今日は散歩日和ですから」
と、ベビーカーの中に微笑みかけながら彼女は言った。あまりにも自然な動きだった。描かれたもののように、きれいで。この子が大きくなって、この子の子供が大きくなったときにも、砂漠などなければいいなと私は思う。三百年経っても五百年先でも、砂漠に一人で暮らすのは寂しすぎるから。月の砂漠に生きるのは、もういい。そろそろわたしも地球に帰りたいなと思う。今日はあんまりにもよく晴れている。

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