越境

越境2 行彦 その1

・哉村氏とのリレー小説です。第一話はこちら

 第一人違いなんだ、と、階段を下りながら行彦は思う。行彦というのは本当は彼の名前ではなく、彼の弟の名前だ。しかし今、ここでは彼の名前として機能している。階段は足元も、壁も真っ白なペンキで塗られていて、手すりだけが何人もの人間に磨かれてきた風情のある鈍い金色だった。一歩ずつ、踏むたびに靴の裏に固い感触がある。上等らしい革靴は学校の制服のものと随分違って、赤っぽい茶色をしていて丸い靴紐で結ばれたものだ。ここでは皆同じ服を着て、同じ靴を履いている。

 彼は三十二日前までは日本の普通の高校生だった。好きなものは青いコンビニのフライドチキンとうるさくないテレビ番組、友達はいるけれど一番と言われれば迷う。家族は好きでも嫌いでもない。部活は機会を逃して入らなかった。やらなければやらないで気が楽だ。別に強要されるものでも、なし。心配事は期末テスト。英語の文法は解るのだが、単語を覚えるのが苦手なので、いつも点数が低かった。大体発音しない字だの、何だのよく判らないと言うと、英語圏の人間はきまってきょとんとする。そんなこと、気にしたこともないみたいな顔をして。

 英語圏の人間、に、そんな話をする機会があったのはここに来てからだけど。

 期末テストの範囲が発表された日だった。現代文はどうとでもなる、古典も多分いける。数学、物理はまじめにやればいい。英語の範囲が結構広かった、気が重い。範囲が広ければ広がるほど、出される単語が増える。いやだなあ、と思いながら電車に乗って帰る。最寄り駅まで二十三分の慣れ親しんだ車窓。降りてバスに乗り換え。ここで平均十八分、バス停から歩いて七分。空梅雨の年だった。空はどこまでも青く、歩いていると暑くなってくるくらいの。もう少ししたら爆発するような音で蝉が鳴くんだ。知っている、テストが終わったら次に夏が来る。

 夏が来てそしてどうするんだ、塾に行って、田舎にある祖母の家に行って帰ってきて、塾に行って終わる。それ以外に、何が?

「ゆきひこくん」

 声がした。涼やかで、ビー玉をころころ転がしたときに似ている音だと思った。振り返って、それ、弟です、と言おうとした。言おうとしたら、暗転。

 目を覚ますと固いベッドに寝ていた。生地の目の細かいシーツは家で用意されている薄いガーゼの、彼や弟がまだ小さいときにすぐあせもになるからと言って彼らの母が用意したもの、を、成長しても似たものを買ってきて敷かれているものとはまったく違っていて、林間学校の宿泊施設の糊の効きすぎたそれに似ていた。夢だと思って目を閉じて、しばらくまどろんで、起きてもなんともならなかったので立ち上がって、薄っぺらな感じのするドアを開けて廊下を進んで、そして、見知らぬ、綺麗な顔の、外国人なので解らないと思ったが、ロシアのほうの出身だと後で知った少年にノートと、なじみのある摩擦熱で消えるペンを一本持たされて、そしてここの"生徒"になったのだ。

 人生はそういうものだと彼は思っている。だいたいそんな風に事は起こって、終わっていくのだと。


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リレー小説です。次回はこちら。(哉村氏のページです)

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