見出し画像

英雄の定理

私事になりますが、何年か前までお付き合いをしていた方が歴史好きで、
いわゆる「歴女」でした。

名古屋在住の僕に合わせ、やや遠方より遊びに来てくれた彼女は、
名古屋で一度行ってみたい場所として「名古屋城」を挙げてくれました。
屋根に金鯱の置物をした建物に過ぎないと思う名古屋人も多いでしょうが、
県外から観光に来られる方にとっては壮観と聞きます。

僕にとっても名古屋城は珍しくもない光景です。
しかし彼女がウキウキしていた姿は、僕にとって名古屋城で見れた
数少ない美しい光景の一つです。

天守閣からの長めを堪能する彼女に訊いてみました。
「どんなことを感じながら見ているの?」と。
何も感じることができない僕がこのまま眺めていても
彼女の感じている何かに近づけない。
それはなんだかもったいないような気がしたからです。

「いやぁ、ここから街を見て『天下』を感じたんだなぁって(笑)」
無邪気にそう堪えてくれた彼女は、なんだか少女のように見えた。
僕のほうが年下のはずだったのですが。


こんな話をしましたが、僕は歴史人物上の武将をあまり好きになれない。
戦争や内紛、時にはテロなどで見られる悲惨な光景は
メディアの進歩で年々よりリアルに伝わるようになりましたが、
そのような光景を見ていると、戦という場でも凄惨な光景があったのかと
どうしてもイメージしてしまう。

僕には、自らの国をより大きく立派なものにしようと努めた武将が
他国の領土を奪おうとしている現代の国の元首の姿と
大して差がないと感じてしまうのです。
「名古屋は織田が治めた尾張の国に始まる」と歴史好きの方が語りますが、
なんとも乗り気になれないのです。


振り返ると、人類の歴史には常に争いがあった。
前述した国盗り合戦が存在したかと思えば、海外でも貴族の闘いがあったし
円卓の騎士団の逸話のように、血を見る歴史上の話は数えきれない。
そんな僕は元寇の際に生み出された「神風」という風に吹かれ
世界で唯一つの被爆国になるまで戦争に明け暮れた国に生まれた身だ。
それ故に、平和を真剣に考える国民が多い国に生まれた身でもあり、
そんな自分の境遇は極めて幸福だと思うこともある。


ただ、そんな国に生まれてもなお、
悲しみに出会わずに住む日々は長く続くものではない。

自分と何のゆかりもない土地で起きている惨状だからといって
心が痛くならずに居れるほど、僕も強くないということかもしれない。
それでも、それが弱さだと言うなら「人として正しい弱さだ」と
そう言い張って自分のアイデンティティにしてきたつもりでもあります。


以前、こんな話を聞いたことがあります。

ある青年が遠く異国の地で見た、大きく立派な木。
地元の民によれば、樹齢は数百年にも及ぶとの話。

その荘厳な空気を身にまとう木に力をもらえたと感じた青年は、
次に旅に来たときはその木の姿に劣らぬ立派な人間になり
また会いに来ようと心に決め、帰国の途につきました。

10年後、忙しい日々の中になんとか時間を作りその木の下を訪れると、
その気は枯れきってしまい、無惨な姿に成っていたというのです。
地元の民によれば、災害や人災ではなく、自然と枯れていった、
その木の寿命を迎えた姿だと言います。

青年は、自分の理想とする姿をイメージさせてくれたその木の
見る影もないその姿に涙したと言います。
悲しさもさることながら、数百年に及び人々を魅了したその姿が、
寿命を迎える残り数年の姿と知らず、
その想像した姿とのギャップによる動揺がひどかったと言います。


心理学の一節で、「樹齢数百年の木」の寿命は「あと数百年」という、
自分が偶然見たその瞬間が寿命のうち始めや最後の限られた区域ではなく
大体中盤だと考える癖があることを示す話なのだそうです。
自分が見ている物事は特殊なものではなく、ごく普通に存在する
そんな事象の中のワンシーンなんだと、勝手に考える傾向があるのだとか。


なら、今日メディアを通じて目にしているこの酷い光景は
実は終焉に近いのではないか。
間違えても、これから永遠にも感じる長きにわたり続くものではないと
心から信じたい。


名前を出した織田信長を始めとする武将、
円卓の騎士団のアーサー王など、「英雄」と定義される者が
世界の歴史を彩ってきて今がある。
そうした歴史が紡がれ、今日僕が友と笑い転げる日が存在する。

いつか心の底から、「これまでの歴史が無駄ではなかった」と、
そう言える日はいつか来るのだろうか?
誰もが互いをリスペクトできる心を持てない限りそうした日は
恐らく来ない。それは至難の業だ。

ただ、もしそれが出来るのであれば、
恐らくその一人一人が「英雄」と定義されるのではないかと思っている。


宗教は人の心のなかにある。
いわば人の価値観がそのまま自らを諭す宗教へと繋がっていく。
ある種ですが、神様という存在を信じない僕にとって
宗教をあえて言い表すなら、人の価値観や思想そのものです。

あくまで僕の宗教観に限った考えかもしれませんが、
宗教が人の価値観や思想そのものなら、人の間に平等や公平があるなら、
どうしてその宗教を抹殺する、できる理由があるだろう。


この考えが押し付けがましいと感じる人もいるだろうか?
ならそれでもいい。

血を見なくて済むならいくらでも僕は言葉を紡ぐ。
それでいつか、僕とあなたが、
僕らの後の世代の皆が英雄になれるのなら。

記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございます。 「缶コーヒーの差し入れ」くらいの気持ちでサポートをしてくれされば とても励みになります。