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小説『惑う部屋』試し読み

『惑う部屋』あらすじ

時間が食い散らかされて、ほんとうに心もとない。
怪物は、ガラスを砕いたギザギザの歯をしていて、ぼくの胸もとを食いちぎりにやってくる――。
ひとり暮らしの男が、手帳の日割りの欄にちっちゃな字で言葉を埋めていく。最近、記憶がとびやすい。夜ばっかりがループしているような、繰り返しの日常に嫌気がさして、引越しの準備を始める……。
「閏」「日和」「修一」三人の男女の一人称告白体で構成された中編小説。

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   Ⅰ


「怖! 階段急すぎじゃね?」
 勝井の声はよく通る。真夜中なのに無闇にふだんのおおきさで喋る。
「ここで靴脱いで」
 ぼくはぼそぼそ息の声で喋って、暗に寝しずまった他の部屋の住人への配慮を示す。
 無遠慮にすのこを踏む音が鳴る。
 たたんだ傘から雨しずくをふるい落とす勝井の手。
 傘の先が空中をさまよい、「傘、どうすればいいの? ここ差していいの?」下駄箱の隅に置かれた傘立てを見つけた勝井が、ぼくにきく。
 共同の傘立てには、なん年も前から置き去りの埃のかぶった傘が、曲がった骨をむき出しにして詰め込まれている。
「十二時まわってるから息で喋って。持って上がって」
 勝井は小声になって肩をすくめる。
「ごめん……」
 歩くたびぎしぎし音を上げる板張りの廊下。
 ぼくが鍵を取り出し、自分の部屋の引き戸を開ける。壁のスイッチをつける。
 引き戸の内側に置いてある、この部屋専用の傘立て。ビニール傘を差し、濡れたズボンの裾を持ち上げながら入る。
 部屋のなかには一脚の椅子、パイプベッドとスチール棚と、ひとり暮らし用のちいさな冷蔵庫。三日前に引越業者が持ってきてくれた、まだ組み立てられていない新品の段ボール箱が壁に立てかけられている。
 スチール棚には本が所狭しと詰め込まれている。実用書が多い。ほかには図鑑や辞典、人文書など。
 小声で「お邪魔しまーす」といいながら、勝井は引き戸を閉める。
 ぼくにならって傘立てに傘をしまう。カーキ色の傘だ。
「閏(うるう)、絆創膏もってる?」
「どうした?」
「血が出てきた」
 勝井は、ひとさし指をくわえる。
「さっきそこで、釘かなんかでっぱってて」
「大丈夫?」
 ぼくはいいながら絆創膏を探す。シャーレみたいな形の、透明なプラスチック製の小物受けは、スチール棚の中段に置いていた。そのなかから絆創膏を見つけ、つながった点線を切り離し、二枚手渡す。
 勝井が一枚受け取って、紙をむき、はくり紙をはがして、傷に巻きつける。絆創膏のガーゼから、血がはみ出して、指を汚す。
「どうしよ、部屋、汚したら悪いから……」
 引き戸を開けたまま、ふたたび廊下の向こうへ行ってしまった。
 ぼくはスチール棚の上段から部屋着を取って、着替える。
 穿いていた裾の濡れたズボンをハンガーに掛けて、スチール棚に引っ掛けて吊るす。
 勝井の寝間着を見つくろう。
「大丈夫?」
 戻ってきた勝井は、照れ笑いしてうなずく。
「そこの、共同の台所で、指洗ってきた」
「着替えこんなんしかないけど」
 ぼくが畳まれた服をほうり投げると、勝井が両手でキャッチする。
 勝井がいう。
「おれ、雨の匂いすると、中学のときの野球部の練習いまだに思い出す。……どしゃ降りんなか走らされて、肺炎で入院したときのこと。もう十年以上も前だよ。はやいよなぁ」
「そんなことあったっけ。勝井って、幽霊部員じゃなかった?」
 勝井は不服そうな表情をする。
「補欠だったけど、部活には行ってたよ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
 ぼくはすこし申し訳なく思い、「おれ、昔のこととか覚えてないから。すぐ忘れるから」といった。
「ふーん」
 勝井は不満そうだ。
「コインシャワー入ろうかな。でも、共同かぁ」
 築年数不明のこの木造の建物とはべつに、庭にシャワー室が独立して建っている。
「鍵かけといたら、大丈夫だよ。百円玉集めてたの、もうすぐ要らないから、なん分でも入ってきていいよ」
 スチール棚から、コインシャワー用の百円硬貨をいっぱい入れたビンを、持ち上げて見せる。
 百円で八分間浴びられるシャワー。八分といっても一時停止はできる。こまめに停止しながら使えば、ぴったり八分で全身を洗える。ただ、装置のある脱衣スペースとシャワーまでの距離が四メートルほど空いていて、シャンプーを泡立てるときやからだに石けんを塗るために、そのつどいちいち往復八メートル歩かなければいけない。タオルを部屋に忘れたときは、着ていたTシャツでからだを拭った。真冬は八分では足りず、毎日二百円かかるからけっこう出費がかさんだ。
「いつだっけ、引越し」
「再来週の日曜」
「二週間くらいか」
「うん」
「閏が引越したあと、この部屋におれが住んでたらどうする?」
「まあ、びっくりするよ。ろくな部屋じゃないからおすすめできないけどな」
「閏がいないと、寂しくなるなぁ」
「ふーん」
「いや、まじで」
「おれ寝るけど、どうする?」
「あ、歯磨く。シャワーやめとくよ」
 勝井は鞄からさっきコンビニで買った歯磨きセットを出す。
「いつもどこで磨いてんの?」
「台所」
 ぼくは部屋の外を指さして、廊下の先にある共同の台所を示す。
「明日バイト?」
 勝井の問いに、ぼくはうなずく。
「六時出勤。明日は、めずらしく朝勤。ぎりぎりまで働こうと思って。嫌いだけど、コンビニの仕事」
「引越したら、おれ、遊びにいくよ」
「べつに来なくていいよ」
 勝井は、ぼくを心配している。悩みなんて話したことないのに、ぼくは心を許していないのに、いつもつきまとってくる。おかげで、いまだに親友でいつづけている。
「閏は、おだやかそうに見えて、心のなかはボゴボゴいってるもんな。ゴボッ、ボゴって、憎しみとか恨みが沸騰してる。煮立ってる」
 笑って冗談っぽくいう勝井に怒りが湧く。見透かしているような、わかっているふうの態度がかんにさわる。それと同時に、自分を嫌いにもなる。親友の勝井を嫌いで、苛々(いらいら)がやまない自分が嫌いで、やめたくなる。
 全部、やめにしたい。
 コンビニの食品って販売期限ってのがあってさ、賞味期限切れてなくても平気でばんばん捨てんの。パンは一日前に廃棄するから、ふつうに食べられるし、チーズとか、なんヶ月か前に捨てるのもあるし。おにぎりも弁当も捨てるときは食べ物に見えなくなる。クリスマスケーキも。……毎日コンビニで、深夜なら二十二時から朝六時まで。大して客も来ない店でひとりで店番して、無意識にひとりごといって、時間刻みで、廃棄して、土曜日はソフトクリームの機械洗浄して、床磨いて、合間にレジの隅の監視カメラの死角で廃棄のピザまんかじって、新商品並べて、新聞引いて、あーもうすぐやっと朝が来るって思って、朝焼けとともにからだはだるくて、自転車で家に帰る。アパートの部屋の鍵を開けた瞬間、顔を上げたら部屋のなかは不自然に真っ暗で、腕時計見たら二十一時四十五分で、あれ? いまから出勤するんだっけ?って、時間の感覚がわからなくなることがある。そのまま部屋の鍵閉めてアパートの階段下りて、自転車乗って、また同じ夜道をコンビニに向かう。狂うんだ。なん年間もずっと、この部屋のなかへ足を踏み入れていないような、夜ばっかりがループして、完全な朝をいつまでたっても迎えられないような、そんな錯覚。それで……、こんな生活もうやめにしようって、思ったんだ。


「そういえばさ」
 けだるくすわっているぼくを、みずきが見つめている。できるだけさり気なくなるように気をつかいながら、みずきが切りだす。
「こないだなにしてたの?」
「こないだ?」
 いつのまにか、スチール棚がすかすかになっている。
 こんなに引越しの準備って、進んでたっけ?
「電話したでしょ。いまから行くよって。あーうん部屋で待ってる~っていったくせに、来たら留守だった」
「え? いつだっけ」
「先週」
「先週?」
「月曜か火曜日くらい」
「……いや、わかんない。電話くれたのは覚えてる。そのあと寝ちゃったのかな。ごめん」
 みずきは、黙ってぼくを見ている。
「ごめん……」
「いいけど、大丈夫?」
「なにが?」
「疲れてんの? さいきんよくぼうっとしてるみたいだから。大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 ぼくは、ほほ笑む。
「さいきんよく記憶そーしつになるの。それだけ」
「ふうん……」
「本、いっぱいあったのに、どうしたの?」
「捨てたよ、全部」
「全部?」
「段ボール四箱くらい」
「ほんとに?」
「うん」
「もったいない!」
「要らないものとってたってしかたないじゃん」
 ぼくは笑ってみずきにいう。
 みずきは棚に残っている本を見る。
「これは、とっとくの?」
「いっぺんには無理だったから。最終的には捨てるよ」
「そうなんだ……」
 みずきはひとり言のように、「まぁ、せっかく引越すんだし、心機一転のチャンスではあるね」といった。
 ぼくはなにもいわずほほ笑む。
「でも、もともと足りてないような部屋なのに、まだ減らすのかって感じはする」
「持ってくものは最小限にしようって決めたんだ」
 ぼくはスチール棚のものをゴミ袋へ入れていく。
 呼び鈴が鳴る。
 ぼくは戸へ向かって「はーい!」と返事をする。
 引き戸が開いて、妹の結衣が現れると、みずきと結衣はお互いの顔を見て、声を上げる。
「みずきさん来てる! ひさしぶり!」
「ひさしぶりだね。三ヶ月ぶりくらい?」
 結衣はスチール棚を見て、驚く。
「おにいちゃん! 本がなくなってる!」
「捨てた」
「えーもったいない!」
「わたしも、ついいま同じこといった」
 みずきが笑う。
「せめて売ればいいのに」
「知らない人の持ち物になるなんて気持ち悪いよ。自分の使った物は、抹消したいんだ」
「抹消?」
「ここに残ってるのも全部捨てるんだって」
 みずきがいう。
「すこしは持ってくよ」
 むきになってぼくがいう。
「たとえばなにとか?」
「たとえば……免許証とか、マイナンバーカードとか」
「身分証じゃん! 本の話してるんだよ」
 結衣がまた笑っている。
「結衣ちゃんって、ほんと可愛いよね」
 みずきがしみじみぼくにいう。
「閏は暗いのに、兄妹に見えない……」
 それをきいた結衣が「おにいちゃん背高いけど、わたし一四八センチだし」と笑う。
 ぼくは段ボール箱のなかを覗き、道具を探す。
「人懐っこいし、ちいさくて可愛いし、絶対もてるでしょ?」
 つまらないやりとり。
 結衣は謙遜して首を振り、「今日ちょっと寒いね」と話を逸らした。
「くもってるもんね。降ってた?」
「んーん、まだ。すごい、いまにも降りそうだったけど」
「大丈夫かなー。わたし傘持ってきてないんだ」
「おにいちゃんに借りればいいじゃん。みずきさん、すぐ行くの?」
「うん。あと十分くらいで行かなくちゃ」
「いそがしんだねー。また会おうね」
「今日の夜も来るけどね」
「わたしは夜帰ってるから」
「そっか、じゃ、引越し先で、三人で鍋でもしよっか?」
「いいね、春鍋」
 ぼくは、金槌を出し、柄をみずきに向けて差し出す。
「三人いるうちにこの棚、解体したいんだけど」
「この服、なんとかして。はい」
 スチール棚の上にあった服を、結衣がぼくに押しつける。ぼくは受け取り、そのままゴミ袋へ入れる。
「捨てるの?」
 結衣はめんくらう。
「もう着ないから」
「そっか……」
 ぼくはスチール棚に手を掛ける。
「おれ支えるから金槌で下からトントンってやって」
「はーい」
「閏しか一番上届かないね」
「あ、椅子つかって」
「家族みんな背低いのに、おにいちゃんだけ高いの」
 ぼくはつめたいスチールの棒で編まれた天板を押し上げる。みずきが下方向から叩くと、簡単にスポッと上へ抜けた。
 上段を取り去り、壁に立てかける。中段、下段も同じ要領で解体していく。スチール棚がばらばらになると、からだの凝りがほぐれたような、妙な開放感ができた。
 みずきは携帯電話の時刻表示を見てジャケットを羽織る。
「そろそろ行かなきゃ」
「ありがとう、たすかるよ。ひとりじゃ大変なこと多いから」
「また夜来るから」
「うん」
「気をつけてね」
 結衣がいう。
「結衣ちゃん、また、向こうで会おうね。なに鍋がいいか考えとくね!」
 みずきは急いで部屋を出ていく。
「みずきさんっていい人だよね。料理もうまいし、しっかり者だし、親切だし、すごいいい人。大好き」
「へぇ」
「そろそろ結婚するの?」
「さぁね」
「ふーん!」
 板張りの廊下に、小走りの足音が響いてきて、いったんいなくなったみずきが引き戸をノックして、こちらの返事を待たずに開ける。
「どうしよう! 凄い雨! 傘借りていい?」
「いいよ。返さなくていいよ」
 ぼくが、傘立てから傘を一本渡す。こないだ勝井が置いていった、カーキ色の傘だ。
「返すから。引越しても、傘は要るでしょ」
「友達が置いてったやつだから」
「わかった! ありがとう!」
 みずきは受け取り、あわただしく廊下を走り去っていく。
 ぼくは部屋から顔を出し、みずきの背中に「階段、気をつけて!」と呼びかけた。
 しばらく耳をすまし、階段を下りたみずきが去っていき、完全に気配がなくなるまで待って、引き戸を閉めた。
「おにいちゃん、引越すの絶対正解だと思うよ」
 振り返ると、結衣が壁のそばに立ち、傷んだ土壁に当てていた手のひらを見て、粒がつくのをじっと見つめながら、いう。
「窓もないこんな部屋、不健康すぎるもん。朝目が覚めても、晴れなのか雨なのかもわからないでしょう?」
 ぼくは目を伏せ、しずかにいう。
「わかるよ。湿度とかで。感じるよ。長く住んでいると、感じるようになる。……だからなんだ。湿度なんて、わからなくていいもの、これ以上感じたくはないから。この部屋を出るんだよ」
「引越しの日、晴れるといいね」
「どうかな」とぼくは曖昧に笑う。
「雨男だから」
 結衣も笑う。
「うん」
 二人は沈黙する。
「おにいちゃんの、将来の夢ってなにかある?」
 結衣がきいた瞬間、たすけ舟を出すように、タイミングよくガムテープが切れた。それを見た結衣が「わたし、買ってくるよ」といった。
「行ってくれんの?」
「おにいちゃんは片づけをしたほうがいいでしょ」
「サンキュー」
「ガムテープ以外になにか買ってこようか?」
「あるよ、夢」
 ぼくは結衣をまっすぐに見て、答える。
「結婚して、……子供が二、三人いて、どっか島とか、田舎の自然に囲まれたところで、畑とか耕して、できすぎた野菜は物々交換して、完全自給自足までいかなくても、だいたいのものはそのコミュニティのなかで足りていて、たすけあって暮らしているような、年寄りも子どもも自分も、奥さんも、周りの人も、おおきな不幸はなく健康で、寒い地方でもいんだけど、なんか、あったかい暮らしをするの」
 結衣はほほ笑みを返す。
「なんだ、夢も希望もない人生なのかと心配してた。ガムテープ以外はいい?」
「うん」
 結衣は立ち上がる。立ちくらみでもしたのか、しばらくつっ立ったまま、目をつむっている。
「どうした?」
「……雨の音」
 ぼくは耳をすます。
「この部屋、ほんとうにわからないね。……みずきさん、大丈夫かな?」
「お前、傘あるの?」
「おりたたみ持ってる」
 結衣が出掛けると、ぼくはいっぱいになったゴミ袋をくくり、立ち上がる。
 引き戸を開ける。ギシギシ鳴る板張りの廊下を歩き、すのこの敷かれた玄関でサンダルを履いて、急すぎる階段を下りる。
 上空から街へ覆いかぶさるように降りてきた巨大な淡いノイズのベールが、足もとよりも下のほうへ落ちていき、地面の近くで滞る。
 共同のコンテナを開けると、不用品をいっぱいに詰め込んだゴミ袋を勢いよく放り込み、重力にまかせて乱暴にふたを閉じた。


 目を覚ますと、かたい床にじかに寝ていたことに気づく。
 また記憶が飛んだんだ。最近ではたびたび起こるから、たいして気にしなくなってきた。
 あのあと結衣がガムテープを買って戻ってきて、雨が一段と激しくなって、しばらくしたら嘘みたいにぴたっとやんで、「いまのうち」といって結衣は帰っていった。
 そこから記憶がない。
 引き戸を閉めて、鍵をかけたのはかろうじて覚えている。
 疲れて寝てしまったのか?
 バイトに出掛けなくちゃあいけない。
 最後のバイトだから、店長に、お世話になりましたっていわなくては。
 雇われ店長はたいてい夜勤が始まる時間帯までいて、ぼくが出勤するとバックヤードですこし用事をしてから帰る。ぼくが辞めたら、たぶん穴埋めであの人が夜勤のシフトに入る。
 夜遊び帰りの客が、酔っ払って絡んでこなけりゃいいけど。今日で終わりだ。もうすぐ、終わる。
 まぶたを開けると、蛍光灯が点いたままだった。
 からだを起こすと、部屋の入り口に積み上げられた段ボール箱や荷物に気づいた。解体したスチール棚の天板や部品が、引き戸のすきまにはめ込まれ、つっかい棒の役割を果たしている。鍵を開けても引き戸が開かないようになっていた。
 段ボール箱が高く積まれ、冷蔵庫もパイプベッドも寄せられている。反対側にあったものも、全部ひとかたまりに入り口に積まれていた。まるでバリケードだ。
 ぼくは寝惚けたまま、わけがわからず、その荷物をひとつひとつ下ろし、壁側に戻していく。


 やけに苛々がやまない。
 ぼくは心に浮かんだ言葉を、毎日書き留めるようにしている。じゃないと嫌なことがぐるぐる頭んなかで回りつづけて不健康だからだ。ほとんどバイトのシフトしか書かれていないスケジュール帳の、日割り欄のちいさなマスに、だれにも見せたことのない、言葉を。見せるために書くんじゃない。吐き棄てるためだけの言葉。床にすわり、椅子を机代わりにして、ちっちゃな文字をマスに埋めていく。文字を紙に刻みこんでいく。
 引き戸が開いた。結衣が廊下の向こうの共同台所で飲み物を淹れてきて、マグカップからこぼさないよう気をつけながら、そうっと戸を閉めた。
 ぼくは手帳を閉じて顔を上げる。
 引き戸の内側に置いた傘立てが目に入る。
「なに書いてるの?」と結衣がきいた。
「日記。雑記」
 そっけなく答えて、手帳を閉じる。立ち上がり、傘立てに差してあるカーキ色の傘を引き上げた。みずきに貸したはずの傘が、なぜかいまここへ返ってきている。
 結衣はベッドのはしに腰掛け、飲み物をひとくち飲む。
 ぼくは傘を戻す。
「昨日の夜、起きたらさ、ここにバリケードみたいに段ボール箱とかいろいろ積み上げられててさ、びっくりした」
「え?」
「自分では置いた記憶ないのに」
「バリケード?」
「寝ぼけたのかな」
「部屋のなかに積んであったの?」
「うん、部屋のなかのものがここにひとかたまりに積み上げられてた。引き戸は鍵を掛けたうえで、開かないようにスチール棚がつっかい棒にされてて」
「酔っぱらってたとか」
「酒なんか飲んでないと思うんだけど……結衣が帰ってからの記憶がなにもなくて」
「飲んだか飲んでないかも覚えてないの?」
「んー最近、なんか記憶、……記憶が、とびやすいんだ」
「とぶの? でもバリケードでしょ?」
「うん、でも段ボールとかだけど。気づいたら床で寝てて、」
「クスリとかじゃないよね?」
「ちがうよ」
「今日天気いいし、すこし散歩でもしたら?」
「まだ引越しの準備があるから」
「もうほとんど終わったでしょ」
「まだだよ」
「わたし、こないだ友達に誘われてお芝居観に行ってきたんだ。ああいうとこ初めてで。ちっちゃい劇場なんだけどさ、地下にある。そしたらそれに出てる人、おにいちゃんにそっくりだったの。びっくりしたよ。男のひとり暮らしの設定なんだけど、コンビニでバイトしてて引越しをひかえてて、部屋でうじうじしてるところもおにいちゃんにそっくりだった」
 結衣はまたマグカップをひとくちすする。
「おれ、芝居とか観に行ったことない。興味もないけど。小学校とか中学校で、劇団が巡業で回ってくるの観たくらい。演劇ってシーンとシーンのあいだに暗転が入る、あれが苦手」
「あんなくらいで怖いの?」
「暗所恐怖症だから。真っ暗んなかにいると、自分でも気づかないうちに震えてたりする」
「そういえば、引越し屋さんって、結局頼んだの?」
「友達が手伝ってくれる。レンタカー借りて運転してくれるって。荷物もかなり減らしたし。金もかからないし」
「でも、そういうのって、結局お礼にごちそうしたりするから、レンタカー代も合わせると、逆に業者に任せたほうが安くつくっていうよ」
「そうなの? そんなことまで考えてなかった」
 結衣はちょっとあきれた顔をする。
「つぎの仕事どうするの? お金貯めるんでしょ?」
「なんで?」
「だって、結婚資金とか。ま、結婚してから貯めてもいいけど。みずきさんがばりばり働いてるしね」
「みずきと?」
「そのうち田舎に住むんでしょ?」
「……あんなのは夢だよ、単なる。生まれ変わったらなにになりたいとかっていうのと、同じ次元の話。みずきと結婚なんて、考えたことない」
 結衣は不愉快そうに「生まれ変わったら? がんばったら、できなさそうな夢でもないのに」といった。
「がんばったら」
「そうだよ。なんのために引越すんだよ」
「嫌いだからだよ。この部屋が」
 結衣は黙る。
「せいせいする。もうここに帰らなくてすむと思ったら。窓がなくて、隔離されたみたいに外の音はきこえない。建物じたい古くて汚いし、夏は暑くて冬は寒いし、台所もトイレもシャワーも洗濯機も共同で、電車の沿線もバスの路線も微妙に遠くて不便だし、夜道は真っ暗だし。いいところがひとつもない。この部屋を一回でも、一瞬でも、好きになったためしがない。だから引越すんだよ」
「でも、長く住んでたくせに」
「仕方なくだよ」
「いっつも後ろ向き」
「お前にはわからない」
「わかるよ」
「説教なら帰ってくれよ」
「ごめん」
「いいけど……」
 結衣は話題を変える。
「あさってお花見行くんだ。サークルで」
「もう咲いてんの?」
「咲きはじめ。児童公園あるから、窓があったらここからお花見できたのにね」
「うん」
「桜が見えたのに」
「うん」
「でもこのあたりって意外とお花見にちょうどいい場所ないよね?」
「地元は平川公園があったからな」
「そうそう、ああいう規模の公園。ないよね」
「平川公園の桜、きれいだよな」
「おにいちゃん平川公園好きだよね。昔、早起きしてよくジョギング行ってたし。小学校か中学のとき。よくつづくなーって感心してたんだ」
「ああ。小学校五年からだよ。ジョギングってあれ、口実だったんだ。家にいたくなかったから。ほんとうは公園に行ってもほとんど、ベンチにすわってぼうっとしたり二度寝したりしてた。公園に向かうとき、ひと気のない早朝の町を歩いて。踏切ふたつ越えて、小学校の前通りすぎて、坂道くだって、道路渡って、商店街突っ切って……。冬はかじかんだ手をポケットに突っ込んでさ。……節分のつぎの日の商店街に、豆まきの豆がいっぱい落ちてるのを見つけて、おれ、地面から潰れてないやつ、汚れてないやつ拾い集めてさ、商店街はじからはじまで、けっこうな量ポケットに詰め込んで、あとでちょっとずつ食べた」
「なんでそんなことしたの?」
 そのなにげない問いに、憎しみが、自分でも驚くほど突発的に、沸点へと達した。気づいたときには理性を失い怒号を上げていた。
わかってるだろうが、お前!
 手に持っていたものを床に投げつける。
 ぼくの感情の変化があまりに唐突だったため、結衣は事態がつかめず半分笑いながらこちらを見た。
 ぼくは怒りで目がかすみ、視界が急速にホワイトアウトした。
「ひもじかったんだ。好きであんなにがりがりに痩せてたんじゃない。ずっと腹が減ってて、豆が落ちてるのを見てとっさにやったっ!て思って、でもすぐに情けなくなった。泣きながら口いっぱいに頬張った。乾燥した豆が唾液を吸って口のなかがからからに渇いた。お前、おれがあのころ、どんなめにあってたか知ってるだろ?
 目がかすむのは、涙があふれるからだ。
 ぼくはふいに正気を取り戻し、できるだけ穏やかに結衣にきいた。「あれから、みずきってここに来たんだっけ?」
「えっ?」
 その唐突さに結衣が戸惑う。ぼくはまた怒りが沸騰する。
傘が、いつのまにか戻ってきてる!
 絶叫した。
 抑えきれない狂気がぼくを襲った。
 結衣は怯える。狂人を見る目で、ぼくを見る。
 こないだ、勝井が泊まっていったときに置いていった、カーキ色の傘。
 それをみずきに貸して、そのあと彼女には会っていないから、この傘がここにあるのは絶対におかしい。
 ぼくはまたもとの穏やかさでひとり言ちた。
「来たんだっけ? 覚えてない……」
 結衣は飲み干したカップを持って立ち上がる。
「……カップ、洗って台所に置いとけばいいよね? まだ使うでしょ」
「洗わなくていいよ。いま、捨てるから」
 ゴミ袋を片手に持って、結衣の手からマグカップを取り上げようとする。
 結衣は思わず手を引っ込める。
「もったいない。要らないならわたしがもらうよ。洗って持って帰る。このカップ、かわいいじゃん」
 結衣はマグカップを洗いに台所へ行く。
 ぼくはまた手帳を開ける。
 目を文字に近づけ、細いペン先で、紙に、言葉を、刻みつけていく。


 呼び鈴が鳴ったので、部屋のなかから引き戸を開けた。
 こわばった表情の結衣がぼくの顔を見上げる。
 結衣は部屋に入る。
「みずきさん……。病院に運ばれたときはもう息をしていなかったって。発見が遅れて、手遅れだったって」
 結衣は恐怖と悲しみと驚きで動転しながら「なにも言葉が出てこない……。こんな日に知らされるなんて……」といった。
 ぼくは、いきなり結衣がなにをいい出したのか、意味がわからない。結衣は、もうぼくにあらかじめ伝えているみたいな口ぶりだ。
「……みずきが?」
「おにいちゃん、みずきさんのところ行ってあげないの? 引越し終わってからでもいいから、行ったほうがいいよ」
「みずきが、どうなったって?」
 引き戸を開けて立ち話していたぼくは、結衣の後ろに、勝井が動きやすい服装と軍手で立っているのに気づいた。
 結衣はぼくの視線に気づき、振り返る。
「……どれから、運ぼうか?」
 事態をなにも知らない勝井が、切りだす。
 ぼくの引越しが始まる。
 引越しの最中も、なん度も、小刻みに記憶がとんだ。
 解体されたスチール棚のパーツ、いくつかの段ボール箱、傘立て、冷蔵庫、ベッド。
 部屋の外へつぎつぎに持ち去っていく。開け放したままの引き戸。廊下をぎしぎし歩き、下駄箱の前まで運んでいく。勝井が荷物を持って、階段の下に運んでくれる。部屋にはなにもなくなっていく。
 簡単に空っぽになった部屋のなかを、ぼくがぼんやり見渡していると、呼び鈴が鳴った。
「はい」
 引き戸を開ける。
 管理会社の社員が現れる。契約の更新や、大家と連絡を取りたいときに、近所にある管理会社の営業所へ行くと、だいたいこの多摩田という男が対応してくれていた。
「では、ちょっと確認させていただきます」
 管理会社の社員は、部屋に入ると、見渡しながら「目立った汚れなんかは……特にないですね」といった。
「……この、壁が傷んでいるのは、」
「それは最初からです。ぼくがここに来たときから」
「ああ、そうでしたか、もともと古い建物ですからね。申し訳ございませんでした」
「いえ」
「このあと、いちおう清掃の業者に入ってもらうんですが、その分の五千円くらいだけ差し引かせていただいて、あとはお預かりしていた敷金の残額を全部返させていただきます」
「はい」
「では、事務所のほうで手続き終了のサインだけ頂いて、終わりですから」
「鍵、いまお返ししますね」
「ああ、はい、どうも」
 そこにはみずきに預けていた合鍵もある。返してもらった覚えはないが、さっき見たらぼくが持っていた。部屋の鍵を、管理会社の社員が受け取る。
「これ以外に合鍵とか作ったりはしてないですか?」
「はい」
「はい。じゃあ行きましょうか」
 ぼくと管理会社の社員は部屋を出ながら話す。
「けっこう長く住んでいただいてたんですよね?」
「はい、まぁ」
「思い出がいっぱい詰まった部屋だと思いますけど、名残惜しいかもしれませんが、今日で、いまで、もう最後ですからね。もう帰ることはないですからね」
「はい」
「住み心地どうでしたか?」
「……窓がないのが、不健康かなって思いまして」
 ぼくと管理会社の社員は部屋を出た。板張りの廊下を歩き、ここで踏む最後の自分の足音をきいた。


   Ⅱ


 わたしは、震えている。
 椅子に腰掛け、男物の手帳を手にしている。
 ページを開くと、日割りの欄にぎっしり細かい字で多くの言葉が書きとめられている。
 わたしの字ではない。その一節をか細い声で読む。
「時間が食い散らかされて、ほんとうに心もとない――」
 わたしは、目に見えるなにもかもに怯えている。
 広くない散らかった部屋。この部屋は、男物の生活品に溢れている。
 スチール棚には雑に畳まれた衣類が積まれ、長袖が垂れ下がっている。
 歯ブラシと一緒にプラスチックのコップに立てられた、シェーバーの刃のすきまには、細かい髭が詰まっている。
 百円玉のたまったビン。
 湿ったままの手ぬぐいと、石けん垢のこびりついた洗面器。
 大量の本がスチール棚の下の段ふたつを埋め尽くしていた。
 立てて並べられているのではなく、積み上げられて所狭しと押し込まれていた。
 整理されずに入れられた本は入りきらず、床にも溢れている。
 やがて深い闇が訪れ、ちいさな部屋に冷蔵庫の長い唸り声が響いた。
 へこんだトタンの傘立て。
 部屋の幅ぎりぎりのパイプベッドは、しわの寄ったグレーのシーツが降りる側に偏って、壁側のはしは捲れあがっている。
 土壁は触れると手のひらに粒がついてこぼれるほど傷んでいる。
 ぼとぼととコップからこぼしたような、とぎれとぎれの雨の音が始まる。
 ふいに冷蔵庫の唸り声が止む。
 中くらいの雨音がこの部屋を孤立させると、物音ひとつ立てないまま、わたしの意識は消えてなくなった。


 時間が食い散らかされて、ほんとうに心もとない。
 怪物、怪物は悪。
 悪でしかない。
 平面的にすら見えるほど真っ黒に塗り潰された、完璧な悪。
 怪物は、ガラスを砕いたギザギザの歯をしていて、ぼくの胸もとを食いちぎりにやってくる。
 なん度でも、食いちぎっては消え去る。
 出現しては食いちぎってゆく。
 また、やってくる。
 もうすぐだ。
 もうすぐ。
 もうすぐ……。

 怪物はごつくて鋭いかぎ爪を持っている。
 かぎ爪は火でできている。
 ぼくの傷口が燃えている。
 身長が一メートル二十もなかったころからの傷口。
 タンパク質の焦げる匂いがからだにしみついて……。
 ぼくは無感情になる。
 でも痛みは消えない。
 激痛は消えない。
 ぼくはとっくにあきらめている。
 ぼくはとっくに力を抜いている。
 それなのに手加減はない。
 ふいにかぎ爪が横切る。
 無限のくり返しのように、また新しい火が燃え上がる。

 芍薬(しゃくやく)のかたいおおきなつぼみが見える。
 怪物のふたつの眼が、芍薬のつぼみでできている。
 いま怪物は眠っている。
 ぼくは姿を消そう。
 怪物が目を覚ます前に。
 芍薬が花開いてしまう前に。
 みずからの手で姿を消す。
 怪物はぼくを傷つけ、ぼくを壊そうとするくせに、けっしてぼくを消そうとはしない。
 痛みをこらえて生きているぼくに、いくらでも痛みを、追加する。
 もうとっくに飽きている。
 ぼくはみずからの手で消えてなくなる。


「ぼくはみずからの手で消えてなくなる……」
 なん度もなん度もくりかえし読む。気がかりな一節。
 長い月日を、この手帳と過ごしてきたけれど、これまでこんな言葉は見かけなかった。
 引越し業者のマークが入った組み立てられる前の段ボール箱が、壁へ立てかけられている。彼はこの部屋を出ようとしているのだとわかる。
 この手帳の持ち主である閏(うるう)という人物は、憎しみに染まっている。ずっと、たたかってきたんだ。たたかっていた。憎しみという感情と。
 わたしは、彼を襲った怪物が怖い。
 ときどき、部屋の呼び鈴が鳴ることがある。ノックされることもある。
 そのたび、怪物が、わたしや閏を襲いに現れたのではないかと、怯える。
 わたしは息を殺す。
 呼び鈴が鳴る。
 止まらない震えを止めようと、手で自分のからだを押さえる。
 なん度もノックされる。 
 恐怖するわたしの震えは止まらない。
 ある日、また呼び鈴が鳴った。いつものように居留守を使っていると、ベッドの枕元に転がっていた携帯電話が、しずかに光った。わたしは思わず立ち上がり、おそるおそる戸に近づいた。
 戸のすぐ前に立ち止まる。
 まっすぐに引いた境界線のような引き戸が、部屋の内側のわたしと、外側にいる者を隔てている。
 いつもならこのタイミングで、外にいるなに者かの立ち去る気配がするはずだった。
 しかし、戸越しにキーホルダーのちいさな鈴の音がして、わたしは一歩後ずさりをする。
 鍵穴に鍵をさす音。
 そして、ゆっくり引き戸が開く。
「わっ! なんだ、いるんじゃない」
 見たことのないその女は、目の前に立つわたしに、笑いかける。
「結衣ちゃん、もう帰っちゃった? 貸してくれてたすかったよ」
 仕事帰りらしいジャケット姿の女は、傘立てにカーキ色の傘を差し、慣れた様子で部屋に上がる。
「もの凄い豪雨だったのに、駅に着いたとたん急にマシになったの。ついてない」
 鞄を置いてベッドにうつ伏せになる。寝返りを打って、顔を上げ、わたしに笑顔を向ける。
 わたしは、動転して、立ち尽くしている。息ができなくなり、震えているのか痺れているのか自分でわからない。
「こないださー、店長会議が本社であって」
 女は、勝手にくつろいで、世間話を始める。
「上から売上のことで店長全員すごい剣幕で叱られてさー、終わったあと店にも顔出そうと思って電車乗ったの。それなりに混んでて、やっとすわれて、めちゃくちゃ疲れてたのもあって、おもいっきし隣のおばさんにもたれこんで眠っちゃってたの。目が覚めたら、なにごともないかのようにまっすぐにふつうにすわっててくれててさ、そのおばさん。あーめちゃくちゃいい人だなーって。ふつうはさ、身をよじらせるとか、よけるとか、立ち去るとか、べつにそれで当たり前だと思うんだけど、それをしなかったってことが、すごいやさしいなって感じて、ほんのちょっとしたことなんだけど、なんか、心がすごく疲れたあとってのもあって、妙にじんときたというか、感動しちゃって。電車降りたらすこし泣けたよ」
 わたしは立ち尽くす。
「引越し完了したらさ、結衣ちゃん誘ってほんとうに春鍋しようよ。なに鍋が食べたい?」
 女は、部屋の隅にいるわたしに、笑いかける。
「閏! こっち来て!」
 女は自分の横をポンポンと叩いて、すわるように示す。
 わたしは動かない。
 女は立ち上がり、わたしを抱きしめた。
 全身が怖気立つ。わたしが震えていることに、女が気づく。
「寒いの?」
 わたしは目が回り、首を振る。
「どうしたの? 震えてんの?」
 わたしが女を突き飛ばす。力の限り。
 女は床に投げ出され、驚いて顔を上げる。
 わたしが叫ぶ。
「なんで、この部屋の鍵を持ってるの?」
 女は戸惑って、急に泣き顔になった。
「合鍵くれたじゃない。だいぶ前。忘れたの?」
「わたしの部屋よ。出ていって」
「どうしたの? 閏?」
「出ていって!」
「……閏?」
 この女を、殺そうと思った。
 首を絞めて、殺そう。
 女は瞬時に、わたしの殺気に感づいたのか、素早く鞄を拾い、部屋を飛び出していった。
 わたしは急いで引き戸を閉めた。震える指で鍵を掛けた。
 パニックになって、そばにあった、解体されたスチール棚のバーや天板を引き戸のつっかい棒にして、冷蔵庫を引き戸の前に置いた。それから部屋中の荷物を積み上げ、バリケードを作る。
 動転して、必死だった。部屋の無力さに気づいてしまったから。
 からだをうずくめると、床に倒れて意識を失った。

(続く)



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