見出し画像

20.2.1

「ここすわりますか?」

電車に乗っていると、目の前の座席に座っていた男の子が話しかけてきた。

私は少しびっくりしながら、いや、大丈夫ですと言ってその場をやり過ごした。

先ほどからその男の子はどうやら座っていることに飽きてきていたらしく、隣に座っていた妹にちょっかいをかけて、煩わしそうにされており、私に断られた後は諦めて呆然と手に持っているサブレの梱包を眺めている。どうやらあまりに退屈で、電車内を歩き回るための口実として私に席を譲ろうとしたらしい。

思えば自分もこの歳くらいのころはじっとしているのが退屈で仕方がなかった。妙にムズムズしてきて座ってられなくなるのだ。今はゲームも本もスマホもあるから退屈を紛らわすことができるし、勿論そういうムズムズしたものはもう完全に失せてしまっている。

例えば昼時の商業施設、注文したメニューを待っている時に、勝手に出歩いてあちこち見て回る。しかし親元を離れると叱られてしまうかそれとも自分が迷子になってやはりそれで叱られるという考えもあって、親が見えなくなるまで遠くには行けず、結局周りを彷徨くだけにとどまっていた。(親からすればまだ良い子である)

やがて、その男の子は退屈さからその座席を離れて、兄弟たちが並んで座っている一番はじの座席の親に話しかけに歩いていった。その数分後に、弛緩して座っていた妹もそれに混ざり、最終的にそのはじの席は冬眠する小動物たちの団子のようになっていた。

交通機関に乗るたびに、こういう場面はよく見る。今でこそ当たり前になりつつあるが、よく考えたら大勢の他人とひしめき合って黙って長距離を運ばれていく様は妙に異様である。各々が退屈を凌いだり、または退屈に身を任せたりしているが、こう黙って運ばれていると私はある意味荷物として長距離を移動しているのかもしれない。

誰かと乗っていても、別に黙らなくても良いのに電車では口数が減ってしまう。やや過剰なことを言うと、公共機関内は大々的にお喋りをするようなところではないという意見もあるが、私は別に誰がどこで喋ってても良いだろとは考えている。特に終電なんて酔っぱらった人は騒ぎ、時間のない人が何かを食べ、疲れた人は寝て、誰かがなぜか酒を煽り、何かが床に撒き散らされているのだから、その状態が昼に及んでいても別におかしいわけではないはずである。モラルの下限が恐ろしく下がっている状態を見ると、別に行儀良くしてなくたってもう誰も気にしないのではないかという錯覚に陥ることもある。

いつからこうして行儀良くしてられるようになったのか。おそらく義務教育の賜物だろうが、別に電車通学でもなかったのに、いつのまにか私は上手な電車の乗り方を覚えてこうして行儀良く乗車している。今日も1時間半の電車移動の最中にいて、この文章を打っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?