「形式」には興味が持てなくて

ぺんぎん氏のワークショップ疲れ、ファシリテーション疲れの原因は色々あるのだろうけれど、氏はたくさんの場数を経験してきているだろうから、その境地にならないと見えないものがあるんだろうなと思う。

ぼくの周りには、さあ今からクッシュボールを使って交流をしましょうとか言い出す人はいないし、そもそも自分以外の人がワークショップを開いてくれる場面に参加できる機会も潤沢ではないので、ああもうおなかいっぱい、というところまで到達するほどの量が不足しているのである。

これまでの人生を振り返るに、どう考えても、学びに必要なのは異質な体験だと思っていて、習得したものを繰り返していてもあまり学びにはならないし、むしろできるようになったことは自分で抱え込むのではなく、他の人に伝えることのほうが大事だと思う。

それじゃ異質な体験をどうやって得るのか、という話になるが、これがいわゆる快適領域からの脱出であり、つまりは怖いなとか面倒だなとか不安だなとか、そういうところから一歩出ないとなかなか得られないのだが、これが難しい。

で、思うのは、体験と見聞のあいだには割と大きな差があるなあということ。

ぼくがあまりたくさんビジネス本を読まないのはこのあたりが理由で、多くのよくできたビジネス本は「実際に体験しなくてもなんとなく体験した気になる」内容になっていて、しかしそこから自分が学べる要素というのは実はほんのわずかだからだ。

新人の頃は広告表現を学ぶためにすがるように色んなアイデアの本を読んだのだが、役に立ったのは『アイデアのつくり方』という、広告業界で働く人ならまあだいたいの人が読んでいる、薄っぺらい本、これだけのような気がする。

この本が役立ったと思える理由は簡単で、一度内容を読んだあと、何年もアイデアを出し続けた結果、やっぱりここに書かれていることが、どうも共通して言えそうだと思ったからである。

つまりは、見聞というのは体験とワンセットにならないとつまらないというか、小説のように読むこと自体が体験になる場合は別だが、そうでない場合は、ああこれがあそこで書かれていたことかあ、とか、うーんなんか自分は違うように感じるぞ、とか、そういう段階になってはじめて書き手との対話が起こる気がする。

なので、そういう長い付き合いになりそうな本と出会えるとうれしい(が、それは後になってみないとわからない)。

それで、話をワークショップないしファシリテーションに戻すと、自分が始めつつあることは、何かすでにある形式に限定したくないなあと思っていて、さあワークショップをやりますよと呼びかければ確かに楽なわけだが、そもそもこのお題ってワークショップじゃないといけないのだろうか、とか、その前に一人ずつ詳しく話を聞いたほうがいいのでは、とか、いやいやまずはメンバー全員で飲みに行くところから始めたほうがいいかな、とか、そういうことから検討する必要があるし、それで問題が解決する場合もよくある。

それも当然ながらぼくの仕事だ。

創造に関わること、停滞を打破することなら、なんでもやる。

意気込みだけならそんな感じ。

ただまあ今一番役に立てそうなのが、ワークショップだったり、アイデアを活性化したり、整理したりすること。

もうちょっと色々考えていることはあるのだが、今日はそんな感じで。

Dag.

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