一旦故郷のせいにしちゃって


週末2歳の娘と夫と展示を見にいくのが習慣になってきました。無理して毎週何か見なきゃ!ってわけではないのですが、出かける先々で何か面白そうな展示が結構な割合でやっていてそれでなんとなく見るといった具合です。私が学生の頃はなかなかそんなことはできなかったので、あの頃の希望を今になって叶えている感じでしょうか。娘も「赤、いっぱいあったね」「ぞうさんだね」「バッタ飛ぶね」「あの子泣いてるね」など感想を伝えてくれます。私も私で、週末に一瞬非日常にアクセスできることがものすごくありがたい。非日常にポンと投げ出され、作家の脳内で泳がされ、それまでの自分の認知が一瞬揺らぐのが気持ち良い。


私は地方で育ち23歳で上京したのですが、自分の文化資本の少なさにコンプレックスがかなりありました(教育は受けさせて貰っていたのに。何よりも大切なのはどんな家庭の子どもも平等に教育を受けられることです)。東京で生まれた人は良いなあ、生で文化に触れられるんだから。そうやって自分が洗練されていないことにかりそめの折り合いをつけていました。

まあ、今となっては東京なのか、地方なのかは「合う、合わない」であり、洗練されているかどうかもどこに住んでいるかは関係ないってわかります。地方でしか見られないものはたくさんあり、研ぎ澄まされた感性とともに住む美しい友人たちもたくさんいます。私が洗練されていないのは場所のせいではありません。文化にたくさん触れたから洗練されるものでもなく、何かを見たときにどれだけ思考してどれだけ自分の言葉や表現に変えていくかだと今は思います。文化に触れることはあくまでもそのキッカケで、その後に本人の思考がないとスッと流れていってしまう。

ただ、私の性格上東京のほうが肌に合っているってだけなんです。(個人主義で規律よりも自由を尊重し飽き性です、混沌とした性格です)そしてそれも私の主観です。もしかするともっと合う場所があるかもしれない。
そして娘と夫と東京をこうやって満喫するたびに、ああ、でもあの頃の私の鬱屈とした気持ちを「お前のせいだ」ってぶつけさせてくれる場としての故郷に救われてきたなあとも思うのです。思春期はすぐ思い悩み、自分の価値を地の底に落としちゃいますから。

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