マガジンのカバー画像

いぬのせなか座・リリースノート

9
日々の制作や発表のなかで作成した記事のうち、無料で公開するものを収録していきます。たくさん読めるよ。
運営しているクリエイター

記事一覧

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part1)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

いぬのせなか座の連続講義「言語表現を酷使する(ための)レイアウト」。 第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」が、2018年10月13日18時から開催されました。 その日は4時間を超えてなお論点を残す長期戦でした。そこで、当日の読み原稿をもとに、大幅な加筆・修正を行ったテクストを、講演記録として公開します。 講座第1回は、「言葉の踊り場」と題して、日本語による現代詩を題材にした講義を行いました。その記録はこちらで販売し

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part2)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

②「私」+環境のレイアウトa.リテラリティの配置関係 山本 いぬのせなか座は2015年5月1日に立ち上げられました。まず最初の活動として行ったのは、メンバーによる座談会です。各々の言語表現に対する考え方や、いぬのせなか座結成に至る背景などを話しているのですが、そこでのぼくの発言を軽く見ておくことで、あらためて問題の焦点とその背景を確認しておきたい。 小説をきちんと書きはじめてまだ三年くらいだった一八歳のぼくのなかには、「小説を簡素な主題や比喩等で圧縮することなく、それを

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part3)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

b.表現主体の不可避の埋め込み山本 たとえば、「いぬが塀の向こう側からやってきた。」という文があったとしましょう。  ここには、いぬが走ってくるという情景が表現されていると、まず第一に言える、ように感じられる。しかし、それだけだろうか。その情景を支えるものとして、いぬがやってくる「こちら」もまた、どこかで含意表現されてはいないか。それは塀とされるものの手前側にあり、いぬが塀の向こう側からやってくる先としてある。つまり一言でいえば、この文章は、塀の手前にいる「私」の視点から

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part4)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

c.自己知覚山本 ちなみに軽く補助線を引いておけば、こうした考え方は、たとえば生態心理学における自己知覚の問題と親和性が高い。  生態心理学は、アフォーダンスという概念で非常に有名ですが、それだけの学問ではない。そのほかに提示している、身体や知覚をめぐる様々な考え方が、すごく魅力的です。生態心理学の創始者であるJ・J・ギブソンの有名な言葉に、《世界を知覚することは、同時に自己を知覚することである》(『生態学的視覚論――ヒトの知覚世界を探る』154頁)というものがあります。

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part5)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

③主観性(Subjectivity)と物性(Objectivity)a.時枝文法(言語過程説/主体・素材・場面/詞・辞) 山本 以上のような前提を大まかに踏まえた上で、今回は、その後考えた様々な事象も食い込ませ、大きめの理論としてかたちづくっていきたいと思います。  先ほど見たラネカーをはじめとする、言語学での議論では、どうしても単文に話が集中してしまい、複文になった途端に危うくなってしまう。ある文だけを読めばAだと思えていたものが、小説や詩歌のなかでは、まったく異なる質

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part6)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

 時枝は単語の機能を2つに分類する。  ひとつは《概念過程を含む形式》、もうひとつは《概念過程を含まぬ形式》です。  前者には、「山」「川」「犬」「走る」などといった、表現の素材を客体化・概念化したものが属し、名詞や動詞、形容詞が当てはまります。そしてこれを、詞と呼ぶ。  一方、後者には、そのような客体化・概念化がなされないものが属します。助動詞や助詞など、否定や過去や疑問のような主観的態度を表すものが当てはまり、これを辞と呼ぶ。  両者を「客体的と主体的」と言うことも、

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part7)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

b.主観性を触発として考える山本 以上が、時枝文法の大枠を構成する軸たちです。  時枝文法は、批判を受けることも多いですが、それでも、言語を表現の現場を食い込ませたものとして考える上で、極めて魅力的だと思います。  さて、ここから、「レイアウトとしての言語表現」という考え方を作っていきたい。  まず、いささか強引ですが、次のように定義してみましょう。 紙面に向かい合う知覚者は、並べられた文字から、それを並べた者の「私」(Personality)や、その者の周辺にあって思

【講演記録】第1回「言葉の踊り場」(Part1)いぬのせなか座連続講義=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

(※この記事は、試し読みのための無料版です。全篇をお読みになりたい方は、こちらからお買い求めください。) 2018年6月23日18時から三鷹の上演スペースSCOOLで、いぬのせなかの連続講義が始まりました。第1回は「言葉の踊り場」と題して、日本語による現代詩を題材にした講義を行いました。その講演記録を公開します。第2回は、2018年10月13日18時から開催予定です。 開催概要 いぬのせなか座 連続講義=言語表現を酷使する(ための)レイアウト 第1回「言葉の踊り場」 SC

テキストの鮮度、視覚詩のデザイン、文字列のエンジニアリング(笠井康平)

■視覚詩歌のクロニクル ・今週の土曜日に、いぬのせなか座を代表して、山本くんが加藤治郎さんと対談することになった。せっかくなので、ちょっとした企画をやろうということで、視覚詩の歴史を手分けして調べている。 ・Tweetに引用しやすい長さでいうと、「視覚詩の歴史は約2300年前からあって、神託の道具、庶民の遊び、若い詩人の宣言、超-現実を夢見た実験、装幀家の野望、「書物」からの逸脱、国際協調、Webとの遭遇、詩型の融合といった、その時代ごとの流行りがある。」(105字) ・