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【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part1)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

いぬのせなか座の連続講義「言語表現を酷使する(ための)レイアウト」。
第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」が、2018年10月13日18時から開催されました。
その日は4時間を超えてなお論点を残す長期戦でした。そこで、当日の読み原稿をもとに、大幅な加筆・修正を行ったテクストを、講演記録として公開します。
講座第1回は、「言葉の踊り場」と題して、日本語による現代詩を題材にした講義を行いました。その記録はこちらで販売しています。

開催概要
いぬのせなか座 連続講義=言語表現を酷使する(ための)レイアウト
第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」 SCOOL 2018/10/13

目次

①はじめに
②「私」+環境のレイアウト
 a.リテラリティの配置関係
 b.表現主体の不可避の埋め込み
 c.自己知覚
 d.「私」+環境のレイアウト
 e.ここまでのまとめ
③主観性(Subjectivity)と物性(Objectivity)
 a.時枝文法(言語過程説/主体・素材・場面/詞・辞)
 b.主観性を触発として考える
 c.リズム=場面
 d.場面の二重性(操作と現象)
 e.物性と環境
 f.物性の露呈する場所としての空白
④韻律と空白
 a.等時拍
 b.群団化
 c.構成的美
 d.無音の拍(+テンポの変化)
 e.零記号の辞
⑤身体と定型が立たせる空白
 a.具体例1 マラルメの空白‐楽譜
 b.具体例2 新国誠一と多重的主観
 c.具体例3 空白を操作する短歌・俳句
 d.視覚的レイアウト/聴覚的レイアウト
⑥空白と喩
 a.短歌的喩:主観性の質=喩
 b.切れ:私と物
⑦物化した私と主体化した事物によって編まれる多重的距離
 a.明示法
 b.「私(Subject)」化した素材
 c.「物(Object)」化と距離
 d.制作過程における物性
 e.定型の創造、物らが行き交う共同体としての私
⑧私がかつての私を表現する=考えるように、この私をあの石が表現する=考える、その紙面

当日のレジュメ
こちらからご覧いただけます。
※記録公開にあたり、当日の議論やその後の議論を踏まえ大幅に加筆・整理しました。そのため、レジュメと本記録のあいだにずれが生じています。ご了承ください。

会場写真撮影
佐藤駿さん(犬など

①はじめに

山本 ご来場いただきありがとうございます。今日は、いぬのせなか座による講座の、第2回です。
 前回は6月に、「言葉の踊り場」というタイトルで、ここにいる鈴木一平が、詩という表現形式やその発展の歴史について、改行という操作を中心にお話しました。そのときの記録は、noteというサービスにて有料で公開しています(第1回「言葉の踊り場」言語表現を酷使する(ための)レイアウト)。
 今回は山本が中心に話します。連続講座全体における位置づけとしては、いぬのせなか座を立ち上げて以来ずっと、いろいろな角度から論じたり話したりしてきた、言語表現における「私」と環境の問題……そしてその先にある「レイアウト」という問題を、現時点で可能な限り理論化することを目的としています。
 「レイアウト」と言うと、一見、デザインや装飾の問題のように聞こえるかもしれません。ですが、そうではない。というより、そこまでをも表現内部に組み込むために取られた概念です。いぬのせなか座が「レイアウト」という言葉を用いるとき、それは常に、言葉の配置と「私」+環境の配置、紙面の配置、書き手・読み手の配置、それらを地続きに扱うものとしてある。そしてその先には、主観的にしか情報が成立しえない言語表現という形式において、対象=オブジェクトはどう扱いうるのか、という問題が、私=サブジェクトをめぐる問題とともに、はっきり横たわっている。
 これに解決の道を与えられるような理論の構築を、完全なものではないにしてもそのとっかかりというか基盤となるようなところまで開示する、というのが、今回の講座の目標です。

 全体の流れとしては、まず、いぬのせなか座がこれまで語ってきた言語表現をめぐる考え方を軽く紹介し、問題の所在や背景を確認しておきます。
 その上で、そこを起点に構築しうる理論の大枠を、認知言語学や、時枝誠記、吉本隆明、菅谷規矩雄といった論者の議論を参照しつつ、それらを組み換えていくかたちで、徐々に形成していきます。その過程では、「「私」(Personality)」、「環境(Environment)」、「主観性(Subjectivity)」、「物性(Objectivity)」など、オリジナルな概念も出てきます。いま言語表現を酷使する上で必要と思われるパースペクティヴを、可能な限り体系化したかたちで提示するためです。のちに修正する必要があったとしても、いったんはそうしたものを作っておくことで、はじめて開けてくる領域があるだろう。
 次に、今回のオリジナルの概念のなかでも特に重要となる「物性(Objectivity)」をめぐって、その代表例たる韻律の問題を考えます。いわばリズムの問題です。言語表現において、韻律はどのようなものとして議論され、どのように実践に組み込まれてきたのか。そこで生じていた問いとは何なのか。俳句や短歌など、実例を交えて見ていきます。また、その過程で、視覚的操作と音という、一見すると相容れないもののように見える要素同士の関係についても、考えていきます。
 そしてその先で、「物性(Objectivity)」と「主観性(Subjectivity)」の関係を見ていきます。私たちはテクストと接したとき、何を考えざるを得ず、その不可避の傾向がどのように制作過程に食い込んでいるのか。「空白(Blank)」や「喩(figure)」といった概念のほか、「物性」と「主観性」に対応したかたちで「物(Object)」と「私(Subject)」といった概念についても、それらがいかにして言語表現においてありうるのか、というところまで含めて、定義していきます。
 そして最後に、貞久秀紀という詩人の、作品や詩論を見ることになります。私が私を発見することでしか立ち上がらない形式としての言語表現は、いかにして私の外を表現として立ち上げるのか。そこで実現される場とはどんなものなのか。
 こうして形作られる言語表現をめぐる理論は、制作過程をその内部に含みこんだものとして、たとえば、私がいかに対象を知覚できるのかという、(最近流行している思弁的実在論の人たちが批判するところの)所謂「相関主義」をめぐる問題や、作家論とテクスト論のあいだの二項対立の乗り越え、共同制作や時間・空間をめぐる問題にまで直結していくでしょう。当然その細部を考えていくには、もっと多くの時間と労力が必要なはずですが、そうした探索の持続をはじめるためにも、今日は大枠を手さぐりしていきたいと思います。

つづく

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