20181025-11月号

新聞家さんとのイベントに向けたメモ① 『現代詩手帖』掲載対談についてA

(文責・山本)

2018年12月28日(金)18時から三鷹SCOOLにて開催されるイベント「新聞家 VS いぬのせなか座 演劇上演と言語表現、それらのことどもにかかわる対論」に向けて、書き溜めてきたメモを少しずつ公開していきたいと思います。

おおまかな流れとしては、まず、発端となった『現代詩手帖』2018年11月号での記事、カニエ・ナハ+村社祐太朗「活躍する語のために」での村社さんの発言を整理するところからはじめます。村社さん自身の理論の整理と、こちらへの直接的な批判や詩一般への批判の整理をしたうえで、それらに対しての反論や疑問をメモします。加えて、村社さんの他のテキストも参照していき、村社さんがとっている理論をあらためて固めていきます。最後に、再度こちらからの疑問や反論を整理し、イベント当日までに、すべてをコンパクトに圧縮できれば、と思っています。
(こういう感じなので、イベント当日までに随時修正していく可能性も大いにあります。ご了承ください。)

ちなみにこれまでしてきたツイートは、以下にまとめています(随時更新)。
イベント「新聞家 VS いぬのせなか座 演劇上演と言語表現、それらのことどもにかかわる対論」関連ツイート

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まず、村社氏が足場としている、演劇作品の制作におけるテクストへの接し方について。カニエ・ナハ氏との対談の中で彼が展開している理論の核を整理する(当然ここに私らによる恣意的な編集が含まれているだろうことを私らは否定しきれない)。引用はすべて同対談より。

①語の活躍、「書くこと」の有機的立ち上げ
《誰かが書いたテキストだという事実を、上演においてどこまで有機的に立ち上げることができるか》が第一の問題としてあり、それに向けてのテクスト制作における判断基準として「語全員が同じだけ活躍しているかどうか」がある。具体的には、語の出自を明確にして曖昧さをなくし、《読み手、聞き手にとってどうでもよくてすんなり通り過ぎられる言葉》《日常のコミュニケーションを円滑にするためには必要な》語を切り詰めていく。また、語り手の気持ちに関する言及も根拠のない自動化と見なし書かず、また知覚的な情報もそれ自体は言葉に置き換えられないだろうため《その主体が自らの知覚についてどう考えたか》として書くことになる。それらが十全になされれば、すべての語が平等に《活躍》し、「書く」行為が最大化される条件が満たされる。

そもそも演劇というのは、書かれたものを覚えている事実をないことにして上演があるわけです。誰かが言いそうな言葉を書くことが原動力になっていて、それが盲目的に信じられている。そうすると、どうしても書くという事実のごつごつした生々しさがどこかで抜き取られて上演に落ち着くわけです。その書くときに確かにある「考えられる時間」がないことにされてしまう。
私としては、誰かが書いたテキストだという事実を、上演においてどこまで有機的に立ち上げることができるかということに最初の問題意識がありました。
 よく私は、語が「全力を出せていない」「活躍できていない」という言い方をします。自分の書くテキストは、だから一語一語全員が活躍するように書いている。基本的に言葉って、全員が活躍するわけではないですよね。読み手、聞き手にとってどうでもよくてすんなり通り過ぎられる言葉って、日常のコミュニケーションを円滑にする耐えには必要なんです。そういう語を一切なくしてみる。語全員に同じだけ活躍してもらう、それが「書く」行為を最大化する手立てだと思ってやっています。
私が書いているのは、台本で、一人語りなので、どうしても人間、個が強烈に意識される。そうすると、この人がどういう気持になったかとか、何を思ったかとか、書き手は「手がさびしい」から書いてしまうわけですよね。だけど、私はそれを徹底的に書かないようにしています。その人の気持ちとか、それを見てどう思ったとかって根拠がないなと。手続きとしてまず、自分がどう思ったかも自分は理解していないということを根本に置いています。
 じゃあ何を書くのかというと、なにを見たか、なにが聞こえたか、なにに触れたか、といった程度のことなのかなと思います。かといって知覚が真だと思っているわけではなくて、というか知覚は言葉に置き換えられないので、その主体が自らの知覚についてどう考えたか、くらいが結局表に出てくる真実らしいことの最後尾になる。たとえばこれとこれは似ている、と宣言したらその二つを似ているとした思考のディティールみたいなのが主体とイコールです。またそう考えるのを別に控えめとも思わない。控えめどころかいま言っているこのことを継続していると強く自覚していても、あっけなくそこから踏み外していることもある。いつのまにかディティールを外から借りていたり、過剰なキャラクタライズに陥っている。

②テクストの必然性と「意味」
テクストは上演に際して、それ以外のテクストではありえない固有性を持たなければならない。そのため、役者とテクストの接点を可能な限り持てるように稽古していく。具体的には、《「意味をとってください」》というかたちで指導し、村社氏が言うところの「意味」が実現する方向へと役者を向かわせていく。そのとき「意味の実現」は「テクストにおける語の活躍の実現」を意味するという。
※「語」の「活躍」や「意味」については、「語の反響(演劇論)「生けるパン」」や「語の反響(演劇論)「がらのわるいのりもの」」などでその内実の一端を知ることができる。

読まれるものとしての比重が大きいテキストを上演の場に持ってきたときに、別にそのテキストじゃなくていいのではないかという問題が少なからず起こる。これはずっとそうだと思います。上演の場で実際にどうなのか、そのテキストは上演に固有のものになっているのかと。
 私がかかずらっているのはこの問題で、テキストをどう新しくするかということよりも、むしろ上演において役者さんがそのテキストとどう関わるか、その接点をいかに増やしていくかというところに意識がある。その取組のひとつがさっき言った語の「活躍」問題です。語がすべて活躍するテキストに人間は慣れていない。それを発話するときに実はとんでもない集中力や、テキストに触れるための努力が必要になる。
 一般的な演出って、強く言ってくださいとか、言い方を指南する。私は、役者さんのパフォーマンスが違うなと思ったときに、そうは言わない。どう発話するべきかは、私は本当に知らないと思っています。ただ、わかるのは、意味が実現していないということだけ。稽古の現場では、「意味をとってください」という言い方をしています。いまの言い方だとテキスト上では活躍しているはずの語が活躍できていない。それだけをとっかかりに稽古場では、延々と話し合いをしていきます。

③母語である限り把握できること
また、その際、《演出が頓挫しない》のは、《日本語を母語として生きてきた人間》である限りは《確かにそこにとらなければならない意味があることはわかる》し、《活躍してる状態のテキストは、意味を厳密に説明することができる》からである。ゆえにテクストの書き手である村社氏は、役者がテクストの「意味」を実現できているかどうかが感知できるし、実現すべき「意味」を役者に説明できる。逆に、語が活躍していないテキストを用いた場合、そこに《どっちでもいい部分》が生じてしまうために、演出時に《嘘が入り込む》。それは演出を演出家の権威の発露にするだろう。故に否定される。

私のこの演出が頓挫しないのは、意味をとるということは結局、みんな「わかって」いるからです。日本語を母語として生きてきた人間にとっては、確かにそこにとらなければならない意味があることはわかる。活躍している状態のテキストは、意味を厳密に説明することができる。そうじゃないテキストって説明できないんですよ。この演出を普通のテキストでやろうとすると、嘘が出てくる。どっちでもいい部分がある限り、説明するときに嘘が入りこむ。それはただの演出家の権威なんですよね。私はそれを結構恐れていて、もともと秘めやかに共有しているものについて議論し続けるということを演出の次の段階として想定している。共有しているものだったら、誰もが同じように介入できる。それを信じているんです。

④他者としてのテクスト
《「活躍するように密に書かれたテキスト」》は、語の《前と後ろを繋ぐために役に立っていたかもしれない、それだけに意味と関係なく動員されていた語》が振り落とされて空白が随所にあく。結果、《ふだん一人称を読み慣れている人からしたら異常な》、語が《全員むちゃくちゃ働いていて、誰に質問していいかわからない》ものになってしまう。しかし、それでもテクストは《誰かの語りとして書かれた〔…〕その人が生きるドラマ》としてあり、また、そこでいびつとなった語と語の接続を村社氏が《書いているからには私はそこにほそぼそとした繋がりを見て》いるのであるから、役者はそれに対して、《体を動かしたり、距離を調節したりして》《その実現を目指す必要がある》。結果、役者=読み手に《他者を汲み取る責任が負わされている》状態が作り出される。テクストは《読み手にとって一見して物言わぬ他者》であり、それに対して汲み取りを促されなかば強いられてしまう意味で《付随な対象》である。
※他者としてのテクストをめぐっては村社氏の多くのテクストが扱っている。たとえば「『帰る』に寄せて2「単純化」」では、明石家さんまと大竹しのぶのエピソードを引きながら、テクストの背後に存在する表現主体の思考のようなものが、テクストの持つ字義通りの意味とは別に「意味」と呼ばれ、それをどのように汲み取るのか、また表現主体はどのようにそれをテクストに刻み込むのかが問われる。《「確かに何かがそこにはあった。ただそれを読み取ることが私にはできなかった。だから今度からはもう少し深く刻み込んでほしい。」》

ある語とある語は、いびつであっても、書いているからには私はそこに細々とした繋がりを見ています。点検が過剰になると、それが切れているように聞こえたりする。そうすると、それはそれで語に対して嘘なんです。細々とつながっていて、我々が共有できる日本語としての可能性があるのであれば、覚えて何回も稽古している身としてはその実現を目指す必要がある。覚えて何回も稽古しているのに、結局、切り貼りして点検だけを続けるのであれば、それも嘘になる。その辻褄合わせ。
詩人の改行、空白は、個人的すぎるというか、何に要請されて生じているのかよくわからない。私が書くものは基本的に一人語りなので、一人称の小説と文体としては似てしまう。そのときに私の書くものも説明が足りない、空白があいている、文と文の間で説明不足だと言われますが、私の空白は、語を切り詰めた結果生まれてしまう空白なんです。語を活躍するようにすると、確かに前と後ろを繋ぐために役に立っていたかもしれない、それだけのために意味と関係なく動員されていた語は振り落とされる。その結果、あいているように見える。ふだん一人称小説を読み慣れている人からしたら異常なわけです。全員無茶苦茶働いていて、誰に質問していいかわからない(笑)。〔…〕詩人の呼吸は、わからなくするため、難しくするためにしていますよねって思う(笑)。
読むという行為においてテキストって不随な対象だと思うんですね。読み手にとって一見して物言わぬ他者なんです。だからこそ読み手には、体を動かしたり、距離を調整したりして、他者を汲み取る責任が負わされていると考えても良い。私の演劇実践において根幹にあるのは、この「他者を汲む」ことなんです。

⑤書き手
テクストが《物言わぬ他者》であり読み手において《他者を汲み取る責任が負わされている》状態が生まれているとき、書き手もまたほかの読み手と同様に《テキストのすべてを知ってはいない》ものとされる。その意味で村社氏=書き手=《私は自分からテキストを切り離して稽古をする》。ただ、先にも触れたようにテクストにおいて語が活躍しているかどうかは日本語話者である限り感知可能であるため、村社氏は役者に対して、《テキストがどれだけ自活しているかを説明》できる。

私は自分からテキストを切り離して稽古をするんです。私はテキストの書き手だけど、テキストのすべてを知ってはいない。あまり信じてもらえないけど、信じてもらえるように、テキストがどれだけ自活しているかを説明していく。実際、稽古をしていて発見していくこともいくらでもある。我々がテキストを汲んでいく。そういうところに向かっていったときに起こる二重化、それは演出家が演者に負荷をかけるのとは違って、私たちがよく知っている日本語と新たに出会い直すことで起きる二重化です。

⑥偏見から逃れる
こうした営みの先にある《誰かが書いたテキストだという事実》が《有機的に立ち上げ》られた状態においては、上演は《私たちがよく知っている日本語と新たに出会い直す》機会となり、そこでは《語が元々持っている偏見》から逃れることができる。

活躍している語に出会うというのは、偏見を逃れるということでもあるんです。偏見をめくれば、確かにこの語とこの語は繋がるということが見えてくる。偏見があると語に入っていけないし、偏見によって理解が独りで走ってしまうこともあって、詩の場合は意図的にそれが使われることがある。語が元々持っている偏見を最大化させて次の語との分節にかかるプレッシャーを利用するとか。それってアクロバティックなんですよね。語というのは、偏見とそれをめくった後でしかないので、そういうことをすると、語そのものは無視されてしまう。

⑦ポリフォニーの教育
語が最大限に活躍する状態のテクストにおいては、読み手各々が《こうとしか読めない》という事態をばらばらに立ち上げうる。ただしそれは、テクストの書き手による《語の素朴な機能に注目》した細かな説明によってより正確な読みへと補正され得る。そこで各々は自らの内側にあって誤読をもたらした《慣習》に気づき、その下で《言語の機能》が《たくましく脈打っている》ことを知る。さらに、当初の誤読の体験自体が、補正後の読みとともにポリフォニーを築くことになる。こうして、テクスト自体が(どのようにも読めるという曖昧さのもとで)ポリフォニーを起こすというよりは、読み手の側で「こうとしか読めない」が複数あるようなかたちでのポリフォニーが生じる
いわば観客は、テクストをうまく読みこなせず勝手に誤読してしまう者たちとしてまず設定されており、それを、テクストを事前にしっかり読み込んできた村社氏が、上演後の意見会を通して《改めて語の素朴な機能に注目して細かく説明をしていく》ことで、より十全な読みを教育し、観客のなかで①もともとあった誤読と、②村社氏に教えられたより十全な読み、の二種類を《同居》したかたちで抱え持つことができるようになる、と考えられている。
※ちなみにこの、観客側と制作者側のあいだに生じる、読み込み準備の格差は、来年公開予定という村社氏のエッセイ「支度の声へのつぶさ」においてあらためて肯定的に取り上げられている(先んじてご共有いただいた村社氏に感謝する)。「人前」を構成する「不特定多数の人たち」として存在する観客らは、テクストに対して事前に読み込みを行えない存在として想定され、彼らの前に立つ制作者側は、事前にテクストを読み込んでくることができる。そこで生じる格差を、上演を通じてどのように埋めるかが、「支度のディテールを人前で伝播させる」こととして、極めて重視されている。

テキスト全般において、どっちとも取れるというのが嫌いなんですよね。かといって自分のテキストにおいて、ポリフォニックな伝達を目指していないわけではなくて、もっと読み手、聞き手のぎりぎりでそれが起こるように調整できると思うんです。読み手自身も起こりえないと理解した上でポリフォニーが起きるというか。テキストベースでポリフォニーを起こすことは簡単だけど、それだと読み手には受容できない。受容できるテキストを通して、当たり前のように理解できたのに、その後にポリフォニーがおこるということは期待して書いています。だからどっちでもいいよって絶対に言わない。誤解も、予後に、それが誤解だったねって知った上で、その体験自体をポリフォニーのひと筋に充てることもありうる。だから誤読に関しては責めない。誤読することはその人個人の読みの中で起きたことだから。でもその誤読はこうとしか読めないということと先々同居できると思っているんです。
読みが、本当に現実に跳ね返ってくるためには、すれ違い自体も重要なのではないかと。誤読とか誤解といった前提があるからこそ、実際に他者を眼差してみたときに自分の誤解とか誤読が本当に身から出た錆だということに気づく。
 テキストの意味を活躍させると繰り返し言っていますが、活躍させすぎた結果、読めないということが私のテキストには起こっている。それでも読み切るために読み手は、自分の範囲で内容をすり替えたり、自由に連想することでテキストを誤読し、読み切ったことにしようとする。だけど、改めて語の素朴な機能に注目して細かく説明をしていくと、あ、確かにそうとしか読めないということに気がつく。それはまさに錆を認識する過程になる。慣習がぶ厚くおおったその下で、言語の機能はたくましく脈打っていると信じているんです。
新聞家の意見会は、お客さんが話を始めないといけないんです。何か意見や質問を受けて、私が返答をします。でも割と能動的に参加してくれる人が多いですね。アフタトークの質疑応答とかで発言がしづらいのって、自分がそこで同じように大事な一人だって自覚できないからですよね。意見会という形式をとるのは、全員が大事だというのを意識化するためです。オープン・ダイアローグといった考え方も参考にしています。意識を場に引きずり出していくという意味では、演劇は強い。まだまだできることがあると思っています。

こうした理論の延長で、村社氏は、対談相手のカニエ氏が《ここ一、二年のうちに刊行されたものに絞》って選んだ詩集を批判していく。

つづく

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