SCOOL2記録_181118_0174

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part2)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

②「私」+環境のレイアウト

a.リテラリティの配置関係
山本 いぬのせなか座は2015年5月1日に立ち上げられました。まず最初の活動として行ったのは、メンバーによる座談会です。各々の言語表現に対する考え方や、いぬのせなか座結成に至る背景などを話しているのですが、そこでのぼくの発言を軽く見ておくことで、あらためて問題の焦点とその背景を確認しておきたい。

小説をきちんと書きはじめてまだ三年くらいだった一八歳のぼくのなかには、「小説を簡素な主題や比喩等で圧縮することなく、それをつくる過程そのものとして触れるべき」という、あまりにあたりまえな考え方が、絶対に譲っちゃいけないようなものとして、ありました。〔…〕まったく時空間的に違う位相にあるものが文章レベルで並列させられたなら、それは比喩的につなげられたのではなくて、そのように実際に現象が生じたのだと受け止めなくちゃいけない。もしくは、比喩っていうのはそもそもそういう、現実と現実の配置関係のことなんだ、と考える。
文章ごとに生成される非比喩的情報を、因果律のみのレベルから、因果律+表現主体+環境、のレベルにまでおし広げることによって、「世界がそう見えるからこう書いている」という考え方をひっくり返して、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」ということ、小説をつくるという時には小説をつくる側こそが作られているということ、小説をつくる主体+環境が言語とは別に小説の材料になっているっていうことを、考える。

ともに「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」『いぬのせなか座1号』2015年、9-10頁

 自分の発言を引用するのは大変馬鹿らしいことですが、ひとまずそれはおいておくとして、この2つの引用からは、言語表現の作品を、何かを代理的に表現したものとして考えるのではなく、生における出来事として、なまに受け止めるにはどうすればいいのか……そしてその先にはなにがありうるのか、といった問いへの意識が、まず如実に感じられる。
 比喩を抜きにする、というのは、最近だと、『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」』を刊行された福尾匠さんが、「リテラリティ」という言い方で「見たまま」をどう考えるかということを問題にしていますね。また、上妻世海さんの単著『制作へ』の冒頭でも、宮川淳を引きつつ「見たまま」の問題に触れられていて、なんだか最近の流行のようにすら感じられる。
 ぼくの場合は、もともと自分の読み書きにおいて、たとえばル・クレジオの比較的初期の作品(『大洪水』『戦争』『巨人たち』など)における都市の激しい爆発や、クロード・シモンの作品(『フランドルへの道』『歴史』『三枚つづきの絵』など)における事物を介した時空間接合、ロブ=グリエにおけるループ的展開などを、レトリックや喩えとしてではなく、そのようなSF・ホラーとして受け取り、書く、という意識が高校生のころ強くあり、その後、19歳のころに小説家の保坂和志さんの著作と出会ったことでこうした考え方を強く後押しされたことが、かなり大きなものとしてあります。そのあたりのことは、この「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」でも触れているのですが、例えば保坂さんはカフカについてのエッセイのなかで、こう言ったりしています。《カフカの小説は比喩ではない。ある特殊な体験なのだ。あなたが自分の体験を人から比喩だと言われる不愉快さを想像してほしい。小説を比喩として解釈する時代は、カフカが終わらせたのだ。》(「たいせつな本(下) カフカ 『城』」『朝日新聞』2008年1月13日(日)付)こうした姿勢において、言語表現を受け取り、実践すること。
 これに限らず、保坂さんは、いわゆる「評論家」的な読みを徹底して嫌い、小説を書く過程において生じていることをいかにそのままに考えるか、というかたちで小説について語ります(結果、高橋源一郎さんとともに「小説のことは小説家にしかわからない」といった発言をして、かつて議論になったりしたわけですが)。

小説書く人にとっていちばんの問題っていうのは、書き始めた小説を書き上げることなんだよね。その書き始めた小説を書き上げることっていうのは、つまり、読者が読み始めた小説が最後まで読まれるっていうこととまあほとんど同じ意味なわけ。ところが、批評家の場合には、全部読んだっていう前提で枠組みが始まっちゃうわけ。なんでそれが最後まで読めたのかってところがいちばんの問題なのに。だから批評家っていうのは、読む人なのかっていうと、実は読む人じゃなくて、批評を書く人なんだよね。
「中央大学での講演(2003年11月1日)〜小説が立ち上がるとき〜その1」
『メールマガジン:カンバセイション・ピース』vol.12 2004.3.10

 私がこだわっているのは、小説家自身が持っている小説のイメージと、それについて語るたとえば評論家が持っている小説のイメージが違っていることだ。
 小説家は自分自身の小説のイメージについて語らないけれど、評論家はその人が持っている小説のイメージの中で小説を語るから自然と小説のイメージそのものも語られることになる。小説家だってもちろん小説のイメージは持っているけれど、具体的に一つの作品を書いていく過程でイメージのような抽象的なものは後退して、場面の細部や場面から場面へのつなぎという現実的な作業が前面に出てくるために、なんといえばいいか、“小説”という一般論を語れなくなるというか、“イメージ”が“感触”のようなものに変質しているというか。

読者やそれを批評する評論家と、全然違った次元で小説家は自分の小説とつきあっているということだ。小説家の能力を優秀な牧羊犬のように群れを制御する能力と思っているかぎり、小説の外枠しかわからない。羊の群れを制御=抑制する能力で小説が書けるのなら、小説家は一日一〇枚、一年で三〇〇〇枚は書ける。羊の群れの気ままな移動に身を任せようとするからこそ、小説家は一年で一〇〇〇枚が書けない。

二つの異なる原理」『小説の自由』新潮社、2005年(現:中公文庫

 ここに見られる、小説を制作過程において受け止めるという考え方は、一昔前の批評がとっていた立場へのカウンターとしてもあると言えるでしょう(保坂さんはかつて、次のようにも言っていた。《80年代、90年代前半くらいまで日本の文学状況においては、批評家がすごく強かったんですね。蓮實重彦と柄谷行人という大御所がいて、僕は95年ぐらいからあの二人がいたために日本の小説が20年遅れたって言っているんですけど、批評家と小説家ってのは、読み方がまったく違うんですね。》(「中央大学での講演(2003年11月1日)〜小説が立ち上がるとき〜その1」前掲書))。
 こうしたスタンスに影響を受けた小説家の人たちを、佐々木敦さんは「保坂スクール」と呼んだりしていましたが、確かにすごい人たちや作品が、保坂和志の影響下で、2000年頃からの十数年間に次々と登場した。
 ぼくも、自分が小説を書くなかで得ていた実感に、テクスト論と保坂的小説論のどちらがより近いか、また小説を書くことを別ジャンルでの制作につなげていく上でどちらがより「使える」か、と問われると、保坂的な方をどちらかといえばとると思う。それくらい、いわゆる小説三部作『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』+「新潮」連載のカフカ論(未書籍化)は、小説を書いている身として、共感するものだったし、なにより強かった。そこには、制作に内在的な思考が、かなりのレベルで言語化されていた。
 ただ、それで完璧かというと、若干の危うさも感じざるをえないところがあった。これは、いわゆる作家還元主義的なものへの回帰にはならないか。もちろん、作品全体を統括する単一主体を置くわけではないという意味では、当然、一般的な意味での作家還元主義とは異なるだろう。しかし、制作過程を重視するとして、それが、書く上での「スタンス」や「センス」をめぐる話に満ちていってしまうなら、それで良いのかどうか。「全体を制御しないように書くんだよ」「日々素振りを繰り返すんだ」というような、制作に際しての漠然とした指針が強調されたかたちで共有され、結果としてそのほかの細部の技術は神秘化していってしまったり、ある種の自己啓発的な習慣記述に陥ってそこで止まるという危うさはないか。
 もちろん、保坂さんの小説論はそれにとどまるものではないはずだ。しっかりした作品分析も行っている。ただ、本来なら、そこを土台にして、より厳密な、制作を重視した言語表現をめぐる理論が、制作と並行して構築されていかなければならない。つまり、制作至上主義の先で制作を最善のものとして神秘化させるのをギリギリで避け、制作内部に十全な理論構築過程も食い込ませる必要がある。それができて初めて、言語表現を行うとはどういうことなのかがわかってくるだろう。そして、十全に理論化されたところでは、映像やダンスや演劇などといった別のジャンルの人たちが、言語表現の内部で起こることをさらにしっかり(姿勢とかのレベルでなく具体的に手段として)使用できるようにもなるだろうし、テクスト論と名指されるような批評の蓄積の多くも、単に退けられるのではなく、精緻な読みの技術の蓄積として、地続きに使用できるようになるだろう。

 こうした意識のもとで、(ざっくりと言えばですが、)実作だけでなく理論形成にも向かうという、今まで個人的にとってきたスタンスが選択された。上記の座談会でのぼくの発言も、そうした流れのなかで、いかに制作重視の姿勢から言語表現の理論化が可能か、という問いをめぐってなされていた。
 じゃあ、その問いはどういうかたちで解かれうるのか。
 ぼくの先の発言で重点が置かれていたのは、以下の2点でした。

①言語の持つ意味内容とは別に存在する、表現する主体とそれを囲む環境に関する情報に注目すること
②表現する主体とそれを囲む環境がそれぞれに埋め込まれた文章間で生じる「時空間的に異なる位相」の並列や「現実と現実の配置関係」に注目すること

 リテラリティの姿勢は、言い換えれば、表現者が事前にもっていた経験を、テクストが代理的にあらわしていると考えることの否定です。つまり、テクストはそれ自体として、表現過程にまつわる情報が埋め込まれていて、読み手はそれを受け取れると考えなければならない。これはさらに言い換えれば、書き手も、読み手も、その「テクストに埋め込まれた表現にまつわる情報」に対する立場として、同じ位置にいる、と考えることでもあります。書き手の制作過程に伴う経験を、あとから代理的にテクストが表現しているわけではなく、テクスト内部においてそれがすでにして生に起こっているとするなら、書き手もまた、読み手と同様に、テクストに対して外から向き合い、事後的かつ受動的に、テクスト内部のそれとして制作過程を経験しているはずだ。
 ならば、言語表現内部の問題を、制作過程の問題と地続きに考える理論を作る上で、その最初の地点に立つには、次のような前提を設けるのが最短ではないか。つまり、「文はそのつどそれを表現したものにまつわる情報が組み込まれたものとしてあり、テクストとはそれらの配置関係として生じる」と考えること。制作をめぐる情報を立ち上げ配置していく営みとしての言語表現。その先に、書き手と読み手がともに「制作者」という立場において一致する地点があらわれる……。
 では、それは具体的にどのような事態を指すのか。〈言語表現における、表現する主体の不可避の埋め込み〉という点に注目して、いくつかの議論を参照したい。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?