20181025-11月号

新聞家さんとのイベントに向けたメモ④ 『現代詩手帖』掲載対談についてD

承前)(文責・山本)

☆像、音
 また、《どうやっても像を結ばない》という批判と、「音」による動員という問題についても触れておこう。
 まず前者については、これもやはり詩への批判の常套句と言えるものだろう。だが、小説でも詩歌でも、像は決して絶対的なものではない。これはたとえば、言語表現における喩を「像」と「意味」の二種類に分けた吉本隆明の議論を参照せずとも明らかなことである。もちろん言語は多くの場合、像を頼りに存在を規定する。しかし、《山》が《途方もなく分厚い》ものであるという表現は、《途方もなく分厚い山》の像には還元しきれない。またその直後に《疲れて眠るとき、それは雲のかたちをしている。》と来ることで生まれる経験の質もまた、像としてはあらわしきれないものだろう。
 言語表現は像の操作をめぐるものとは別に、表現主体や意味、経験や感覚をめぐる操作を持つ。そしてそれらは、特に文と文のあいだの並置関係によって激しく操作される。詩という表現形式は、多くの場合、その並置関係をめぐる試行錯誤を通して、視覚や聴覚などには収まらない運動を立ち上げる。それをどこまで真摯に立ち上げられるかによって、詩が使用できるかどうかが決まると言っても過言ではない。
 もちろんここには、テクストの側の怠惰があらわれる余地があるだろう。つまり、読み手はひたすら謙虚にテクストをプラス方向に読むべきであり、読めないのは読み手の側に責任がある、というかたちで、テクスト側の弱さが隠されてしまいうるのである。そこで私達ができることは、やはり、徹底して分析し、言語化し、それを複数人で検分すること。そして願わくば書き手とのあいだでもそれをやり取りし、書き直しを複数で行っていくこと、である。そのやり方は、まだまだ決定的なものが見つかっていないだろうが、書くことと読むこと、使用することが最大限循環するシステムの構築を模索することには、まだいくらか可能性が残されていると思われる。

「音」による動員に関しては、萩野なつみ氏の作品をめぐる発言に関連するものがあったので、そこを引いておく。

村社 音が理由で選ばれているとしたら、ここに書かれている文字と読み手である私はまったく関係ないと思ってしまう。たとえば、句読点があることでなんとかこの接続詞がここまでかかるとか、レトリックにおける距離みたいなものって限界があるわけです。理屈でここまでかかっていると説明できればそれでいいってものではない。言語というのは、まずパロールとして、発話される瞬間に言語自体を再定義し続けているという前提があるので、書かれたものと言えど、その暗部における緊張関係は捨てられない。

 当然ながら、詩における音の問題は、改行の問題と同じく、リズムや定型、音韻、懸詞、さらには言語そのものの成り立ちに到るまで、すでに膨大な議論と実践の蓄積をもっている。だが、村社氏が言うところの「音」による動員というのは、単に言葉の置き心地程度の話ではないだろうか。つまり、ここにこの言葉を置くと(意味などとは無関係に)なんとなくしっくりくる、といったようなことではないか。確かにそのようなレベルでしか詩を制作していない詩人もいるかもしれない(少なからず!)。だが、そのような低レベルな実践の存在を根拠に、《音が理由で選ばれているとしたら、ここに書かれている文字と読み手である私はまったく関係ないと思ってしまう》ことは、許されないのではないか。そのように見限ってしまった瞬間、村社氏がアクセスできなくなる議論や実践は膨大にある、と言わざるを得ない。
 言語が持たざるをえない可能性を、客観的に判定可能とされる意味や出自にのみ還元していこうとすることは、言語の配置をめぐる曖昧な判断を徹底してなくしていくための手段としてあるだろうが、音やリズムもまた、ある種の客観的法則性として制作を満たしうる。もちろんそれは、「日本語話者ならわかる」というような絶対的な規範では、やはりありえない。ただ、意味や出自と同じくらいには、複数の制作者に明晰に共有されうるものであるだろう。
 加えて言えば、たとえ音由来の置き心地の良さだけで言葉が配置されていたとしても、私らはそこに、そのように表現した主体の情報を否応なく汲み取ってしまう。語の「出自」は仮構されうる。そこで生じる、リテラルな配置と喩的な立ち上げの交錯は、決して無視できないものとしてあるはずだ(たとえ書き手の思考にのみ着眼するにしても、書くことはそうしたリテラルと喩の往還のなかに身を浸すことなのだから。決して書くことと読むことを完全に切り分けることはできない)。
※詩におけるリテラルな配置と喩的立ち上げの交錯や、音をめぐる議論(特にリズム)に関しては、山本が中心となっておこなわれた講座の記録「いぬのせなか座連続講座 言語表現を酷使する(ための)レイアウト 第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」」で一定程度論じられている。試し読みはこちら

 また、上の引用の後半部分もあわせて検討しておこう。まず、レトリックにおける距離に限界があるというのは事実だろう。私らの言語把握には常に処理限界がある。それを超えてしまえば、理論的には主語述語の関係が明晰に紡がれていたとしても、思考として立ち上げることが極めて難しくなる。
 だが、注意しておくべきは、その限界が、紙面に置かれたテクストに接する場合と、声を聞く場合とで、明らかに異なるということである。
 紙面に置かれたテクストの場合、一読では処理しきれない複雑さであったとしても何度も繰り返し読めば十分に把握可能になる可能性がある。また、紙面上の位置関係(ページの右上にある言葉、など)は、処理限界を一定程度押し広げてくれるだろう。
 一方で、声による表現では、発されたそばからその言葉は失われていってしまう。聞き手は線的にしかテクストを処理し得ず、かつ、聞きながら考えなければならないので、聞き逃しや聞き間違いが避けがたく頻出する。ひとたび声が過ぎ去ってしまえば、随時自らの記憶を頼りにしてそれを曖昧に再現する他ない。
 結果、紙面上のテクストでは把握できていたことが、発声になったとたん、うまく処理しきれない――あるいは曖昧にしか判断できない、ということは当然のごとく生じうるのである。  
 また、言語が《まずパロールとして》あるという前提にも、大きな偏りを感じざるをえない。言語のもつ性質がパロールだけに還元できるものではないということは、たとえばデリダの議論を引かずとも、明らかだろう。パロールへのこだわりは、村社氏が、発声をベースとした上演を制作の中心としていることに由来しているのではないか。もしそうなら、それこそ「そこでパロールが重視されていることと言語表現全般はまったく関係ないと思ってしまう」。いや、そうではなく、あくまでテクストの読み上げにおいて生じる様々な事象(役柄の発生や、読み手の側でのポリフォニー、身体との関係など)を重視したいんだ、ということであれば、そのようにはっきりと言ったほうがいい。上演を前提としないエクリチュールとしての詩が行っている諸々を、そのままにパロールベースの上演形態の価値基準でのみ測る理由などどこにもない。目指されるべきは、一方的な切り捨てなどではなく、書き言葉としての詩と、声としての演劇、その双方での実践がどのような翻訳関係を紡ぎうるのか、その具体的な検討であるだろう。

☆世代間闘争?
 こうして見てきたように、私は村社氏による詩というジャンルへの批判を、あまり肯定的に受け取ることができなかった。《読み切るために読み手は、自分の範囲で内容をすり替えたり、自由に連想することでテキストを誤読し、読み切ったことにしようとする》という言葉は、村社氏自身の詩への接し方に向かって投げ返されるべきではないかと感じる。
 ただ同時に、村社氏が貫こうとする言語表現への向き合い方に、一定程度の共感すら示せないかといえばそうではない。それこそ《同じ世代》として、どこかで共有されているものがあるようにも感じられるのだ。

 凡庸かつ単純すぎる話だが、私らはもはや、ロラン・バルトによる「作者の死」やジャック・デリダによる「ロゴス中心主義批判」などは、すでに50年以上前になされた議論として、話の前提に置かざるを得ない。
 そうしたところから見れば、村社氏による発言、たとえば《テキストの主体はどこまでいっても書き手でしかない。〔…〕書き手が入り込んじゃいけない、書き手がテキストの主体になってはいけないって言い方をわざわざしたいのって、書くっていう行為の詐欺性を看過したような、すごく内向的な読み手のことしか想像してないからなのかな、と思います。》などは、どこまでもナイーブなものとしてしか捉えられないようにも感じられる。
 ただ、こうした村社氏の言語観が、先行世代の議論では扱うことのできない領域を扱うために――さらには演劇という形式においてテクストを、身体や共同制作の問題に密なものとして考えるために――あえて取られたものだと考えることもできるはずなのだ。つまり、書き手による具体的な操作の手付きを抜きにしてテクストを捉えるような場所では、《誰かが書いたテキストだという事実を、上演においてどこまで有機的に立ち上げることができるか》という問題を決して解決できない――そうした判断のもので、村社氏が、先行世代におけるテクストをめぐる理論とは別の場所に行こうとしているということ。そしてそれが、いま言語表現に対して取られるべき「最新」のモードである、と(村社氏によって)考えられているのではないかということ。
 ゆえに《いぬのせなか座の山本浩貴さんが河野聡子さんの詩集の付録で「制作した主体(当然、語り手とイコールで結ばれない)」と書いてい》たことに対する村社氏の驚きが、《「主体」とか「語り手」の意味の取り方ですれ違っている可能性もありますが》と留保を起きつつも、《同じ世代の山本さんがここまではっきり言っていることに驚きました》というかたちで表現されているのだとは、考えられないか。つまり、自分と同世代にもかかわらずあまりに山本は古臭い考え方を表明している、という批判……そもそも引用されている私の発言自体が誤っているため(正しくは「語り手」→「書き手」)、若干の応答しづらさがあるが、こうした世代間闘争のような気配を村社氏の発言から読み取れるということに注目しておきたい。

 私はこれまで、いぬのせなか座という場において、「書くこと」の思考の理論化を目指して複数人で活動してきた。「書くこと」には、特有の異様な思考の質があり、それはテクストを書き手や読み手から切り離して読み解くだけでは決して検討できないものとしてある。しかし同時に、書き手というわかりやすい特権的立ち位置を再度起動させることも望まない。問題は、いかにしてテクストの制作を複数的なものとして開けたかたちで理論化し、「書くこと」以外の営みにおけるシステムと交通させるかだ。
 そのように考え、複数ジャンルを跨ぎつつ実践してきた身としては、以下のように評されたことはやはり残念であった。

いぬのせなか座の山本浩貴さんが河野聡子さんの詩集の付録で「制作した主体(当然、語り手とイコールで結ばれない)」と書いていて、「主体」とか「語り手」の意味の取り方ですれ違っている可能性もありますけど、私は言ってみれば、逆なんです。テキストの主体はどこまでいっても書き手でしかない。同じ世代の山本さんがここまではっきり言っていることに驚きました。書き手が入り込んじゃいけない、書き手がテキストの主体になってはいけないって言い方をわざわざしたいのって、書くっていう行為の詐欺性を看過したような、すごく内向的な読み手のことしか想像してないからなのかな、と思います。

 再度記しておけば、私のテクストは、正しくは「語り手」→「書き手」である。近辺とともに以下に引用する。

 いぬのせなか座はこれまで言語表現に対して、「個々のテキストにはテキストを制作した主体(当然、書き手とはイコールで結ばれない)の思考と、それを取り囲み規定している環境が、埋め込まれている……そして詩や小説は、それら〈私+環境〉をどう並べるか、そのレイアウトの論理こそを試行錯誤し作り出している」という考え方を、基本としてとってきたように思います。レイアウトの思考(そのための試行錯誤としての、書き直しや編集)こそが言語表現の肝であり、ゆえに言語表現は言語(だけ)で作られているわけでは決してない……もっと抽象的な次元の操作こそが主たる素材である……そう考えたとき、無数の問題の結節点としてひとつ、言葉の配置される場所、つまりは(言葉に埋め込まれた〈私+環境〉らにとっての)「ここ」が、いつ、どのように、いくつあるのか、そしてそれらはどんなしかたで相互に関係しあっているのか、といった問題が浮かび上がってくる。 当然いま言うところの「ここ」とは、個々の作品や書物全体が浮かび上がらせる地・主観性として、例えば小説では主に、物語や舞台や登場人物の単位で考えられたりするものであり、実作においては、なによりそれらを創発するテキスト(文章の構成や細部)のレベルで操作されるのが基本でしょう。ごく単純に、文章をどう書くか、です。しかし同時に、そのテキストレベルの操作のなかに、個々の文字の間の距離や反復の試行錯誤あるいは必然性の設定、(散文に特徴的なシステマティックな)改行操作などが含まれている以上、テキストがどのような紙面(デザイン)において提示されるかに関する操作が、〈私+環境〉のレイアウトに明確に食い込んでくることは避けられない。特に自由詩という表現形式の場合、その分量の短さや、改行の自由度の高さ、安定したひとつの地を冗長に持続させる必要の無さなどによって、問題はより過剰にあらわれる。小説において、あるテキストが、ある人物の発言として(鍵括弧に括られ)記されているその必然性として用意されていたもの(物語、人物設定、場面進行……等)が、自由詩の場合、紙面の表面に露呈してしまう。脳みその回路がどろっと外に出ているようなものです。ゆえに詩集のデザインは、〈言葉が読まれ書かれることを可能にしている基底となる場〉、〈作品を作品たらしめている必然性(この作品がこのようなものとして制作されたことの根拠)〉の操作にまで、なまに結びつかざるを得ない。逆に言えば、色や形が文字と平等に拮抗する可能性が、脳みその回路の設計として開かれている。

いぬのせなか座「座談会5 2017/05/21→2017/07/02『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって」河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』所収、いぬのせなか座、2017年。

 テクストの分析単位を書き手に置きたい、という考え方には同意する。ただ、書き手とは何なのかという問いは極めて複雑であり、単にある個人が名指されてしまうようでは、テクストをめぐる特権的な位置を復古することにしかならないだろうとも感じる。
 そもそも私は、テクストをめぐって仮構される制作主体というものが、ある書き手個人の身体に収束することはありえない(より雑多なものらがそこに食い込んできてしまうのを避けられない、ゆえにその雑多さをテクストないしはその周辺環境の細密分析を通して明晰化すべき)、ということを言っているのであり、《書き手が入りこんじゃいけない》などということは一切考えていない。そのように読んでしまうこと自体に、架空の世代間闘争の気配を感じざるを得ない。
 書き手という存在を、書くことに伴う思考とともに具体的に考えていくにはどうすればいいか。その問いは、極めて複雑なものである。ともすれば瞬時に数百年前の議論に引き戻されてしまうだろうし、さらには漠然とした書き手という存在による、すでに失われた(純潔な)「書くこと」の思考をめぐっての、ある種独裁的な営みを起動させかねない。そうした危うさのなかを、ぎりぎりにくぐっていかなければ、《誰かが書いたテキストだという事実を、上演においてどこまで有機的に立ち上げることができるか》という問いの答えやそれに向けた手立ては、決して得られないだろう。

 使えるものはすべて使っていかなければならない。私は小説という形式を自らのホームとして持った上で、詩における蓄積を別ジャンルの思考として酷使すべく、ささやかながら取り組んできた(つもりだ)。同じように、私は新聞家による実践や理論を、やはりささやかながら、酷使できるよう取り組んでみたい。単独では解決のありえない問いに、かろうじてでも対峙するために。次回からは、村社氏によるエッセイなどを検討していく。

つづく

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