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商品を売りつけナイト??スナック和樂に見た商品がメディアになるとはなにか?

暑い日が続くようになってきましたね。なんでも東京では、緊急事態宣言が解除されたとか、されてないとか?小池都知事が次の都知事選挙までフェーズをいくつか分けて段階的に…って湘南じゃ既に観光客が溢れて、地元の人もビックリなわけですよ。
で、犬山でも聞くところによればこの週末、観光客が戻ってきたそうで、某飲食店の店主は「忙しい平日並の人出でしたよ」と。これ以上の経済の停滞は自殺者さえ出かねない状況なので、良しとする見方のほうが多いですね。よかった。

あ、本題?その前にちょっとお知らせで、26日深夜から犬山さんぽのサーバーメンテナンスを行います。新サーバーへ設置移管するんで、その作業ですね。深夜にかけて作業しますから、そんなに影響ないけどね。

では本題、和樂のWeb担当者さんが集まるオンラインスナックに参加しました。前回もその様子を伝えたと思いますが、その続きです。
で、今回のお題は「商品を売りつけナイト」ということで、結構話しちゃいけんだろ!って内容まで話しちゃってますから、次回機会があったら参加してみるといいよ。

デザインが誰でもできるようになった時代の功罪

冒頭、高木編集長は既に酔っていた。多分日中に買ってきた酒瓶を気前よく空けてしまい、始まる頃には一本空けたんだけどどうしよう?とTweetしていたことから、始まる前は既に寝てるのではないか?との話も出ていた(笑)。このゆるさ、仕事が遅い!と鉄拳が飛んできた角川と比べ、社会的かつ知性的で黒曜石のように堅いイメージの小学館のそれをそっくりぶち壊すには十分足りる。

和樂にはオンラインストアがあり、本日はその宣伝も兼ねていた。兼ねて、というよりも和樂から企画されているアイテムはどれも魅力的。単純にデザインされて作られている「用の足りるアイテム」ではなく、一つ一つに作り手の顔が見えるようにデザインされている。
特にこれ…

水出し緑茶の器具。水出しという点がポイント。本当ならサーバーに緑茶を入れて、水を注いで一晩くらい掛けて出す、が一般的ではなかろうか?このTea Time Machineは一滴一滴水が落ちる様を楽しめる。つまりお茶を飲むまでの時間すら楽しませてくれる。
これがただデザインされて作られたのではなく、ガラス器具を専門に作る企業とのマッチアップで誕生しているところが興味深い。だって理科のフラスコとかビーカー作ってるメーカーさんと作ってるんですよ?それだけでもう…以下略。

次にこれ、木目込みという技法の招き猫。これが発売されたと聞いて、どれ一つ購入しようかと仕事をこなし、次に販売ページを開けたら売り切れてしまっていたアイテム。
この招き猫も単に招き猫をかっこよくデザインした!ではなく、埼玉県川越に伝わる木目込みという技法を使って作られている。

話には出てこなかったけど筆者はこちらがお気に入り。備前焼のコーヒードリッパーである。はっきり言って、もろにバリスタの腕が試されるアイテム。でも日常に陶器があるとなんだか落ち着く。使い方を間違えなければ旨いコーヒーを淹れれる。先の水出し器といい、日本の文化とコーヒーという西洋文化をうまく融合させているアイテムだ。

まだまだ和樂発信のアイテムはあるのだけど、筆者は和樂の回し者ではないので割愛。何が言いたいかって、デザインは誰でもできるようになった、デザインコンシャスが入り込んで、誰もがそこそこのアイテムをデザインできるようになった。
Webがここまで浸透する前はそこそこのデザインでもそれが際立って見えていた。だから何もしなくても売れたし、誰でもデザインに手が出せる時代ではなかった。今はどこの誰でも発信者になれる。このnoteのように誰でもメディア化してしまえる。そうなるとそこそこでは売れなくなる(なった)だからそこそこのデザインを作れる人を巻き込むか、とんでもない発想を具現化できるかの二極化となった。

メディアを本業とするならば、どちらを選ばなきゃいけないのかは言わずもがな。誰も思いつかない何かを作るしかないとなる。

商品のメディア化は結論、差別化だ

産業商品をメディア化することは多分難しい。そこにはデザインが必要とされないから。でも、車を例に取ると、あまりにも同じような車が並んでいると買いたくなくならない?どれも同じに見えるって、それは大量生産時代の産物だから。だから人と違う何かを求めて、出版物を頼っていた時代は確かにあった。情報誌はその最たる例である。

が、メディアの垣根が下がり、個性を求めるようになる位豊かになると、次に求められるのは理由だ。工芸品が工芸品である理由。デザインも含めて、誰から購入するか?という現実に当たる。

価格が購入心理を超えたとき、デザインはより精錬される。モノとしての物語が欲しくなる。
すごく無理やりかもしれないが、これだけメディアが横行した時代のヒントは、見飽きた読み物を超えるプロダクトデザインだと筆者は思う。犬山という小さな舞台をテーマに綴らせてもらっているが、今後発信する内容はまちの人、まちの色なんだと考える。詰まるところ、ここへ行きたい、ここに住みたいと思わせるだけの価値を楽しく発信しないと駄目だなと感じるのだ。
結論として、地域メディアがこの先、生き残るには理念を持ち、発展の手助けになるメディアを目指さなければと、真剣に考えてみた。

工芸が生き残るには?

今回、編集長がとてもおもしろい話をしていた。パトロンのくだりは知らない人も多いのではなかろうか?
パトロンとは画家や作家を資金面、生活面で支えるいわゆるスポンサー。相撲の世界で言ったらタニマチだ。この文化、実はまだ日本で生きていて、相撲では後援会が一人の力士の化粧廻しや土俵入りの祝儀などを持っている。(永谷園は有名)タニマチは一人ではなくて何十人、何百人と全国にいて、一人何口と決まりはないが支援している。
日本画家でもこのタニマチはいる。画廊の店主や不動産関係者なんかが後援会を組んで日展の参加費や日常生活の資金面の援助をする。システムについては以下略。

陶芸家のお話をされていたが、「売れるとわかっていると作家も気分良く作れる」とこれは間違いない。何より無名だとタニマチやパトロンの存在が大きく、売れるものと同時に挑戦的な作品も作ることができる。

今、パトロンを求めるなら企業と組む。これはすごくいいアイディアだし、今からならこの手段しかない、全く同感。作家が作りたいものと企業が作って欲しいものの橋渡しをメディアができたとしたら、ここが今後の工芸が生き残り日本文化を継承していく手段だろう。

この北斎のスーツケース。今だから北斎がここまで認められたが、江戸の時分は大衆絵画の一つで、新聞の4コマ漫画みたいな扱いじゃなかったろうか?

表題ままなんですけど、北斎の浮世絵ってなんでフランスとかスペインで見つかったかって、陶磁器を包む包み紙だったって話で、フランソワーな人がこれは珍しい!で保管して評価されたんじゃなかたっけ?

きっと日本の文化って、茶の湯も着物も浮世絵も、江戸の時代の人たちからしたら当たり前で「何いってんのこいつ?」みたいな意識だったんじゃないかなと。工芸もタニマチこそ必要だけど、脈々と残さないとイケない!って使命感じゃなく、じゃあどうしたら普通になるか、考えてみたいし、普遍化するためにメディアが尽力しなきゃいけんなと。書いてて疲れてきたので最後はグダグダですが。今日も読んでくれてありがとうございましたっ!

次回のスナック和樂は6月2日20:00~らしいですよ!面白いんで皆さんも是非!

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