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家康公の命日

徳川家康公の命日は、4月の17日だ。久能山東照宮でこの日は、司祭徳川ご宗家のもと、毎年御例祭が、行われている。
今年の御例祭は、ご宗家が代替わりして初めての年であったため、多くのマスコミが来ていた。この行事に、私が参加するようになったのは、財団が設立できた辺りであったと、記憶する。その前は、弟が参加していたように思う。また今年は「水戸様」や慶喜公の末裔が来たりしていて、家康公400年遠忌以来華やかであった。私は昔の将軍家を「ご宗家」、御三家を「尾張様」「紀州様」「水戸様」とお呼びする。なぜかというと、皆「徳川様」だからだ。そうお呼びすることで、申し訳ないことだが、私が分けているかもしれない。
犬山城は、私が財団の理事長になってから「尾張様」「紀州様」には、おいでいただいた。先代の「ご宗家」には講演もしていただいた。江戸時代には、考えられないことだ。初代正成が聞いたら、ひっくりかえってしまいそうだ。

今年のご例祭には、徳川四天王の1人、榊原のご当主も来られる予定だったようだが、姿は見えなかった。いつも徳川の家臣軍の中心は、旗本中心のグループ「柳営会」だ。いつからか、席の隣が「柳営会」の偉い方になり、そのお陰で今私は、色々歴史上有名な家臣の末裔にお会いする機会が増えた。
成瀬家は、初代、2代の時は将軍家と繋がりがあったが、犬山城という城の城主なのに、尾張徳川家の陪臣であるため、そのような団体には、今まで入ってきておらず、私は理解者の少ない世界で、成瀬家は過ごしてきたように思う。それは、文化財所有グループからも、感じられたことだ。
だから今の私は、幸せ者だ。

まだ財団が出来る前、財団の発起人の中に、その当時の久能山東照宮の宮司もいた。その宮司はすごい高齢で、私とは話が、噛み合わなかったことを思い出す。初めて久能山東照宮に行ったのは、その宮司に、財団の発起人になって欲しいと、お願いにあがった時だったと記憶する。その時の私の出で立ちは、スーツにハイヒール。挨拶だからと気張って行った。話の最後に「土産を石垣イチゴを用意したから」と笑って宮司は、久能山東照宮の応接室だったか、下を指差した。私は「まさか、あの長い階段を降りるのか?」と耳を疑ったが、断る訳にはいかない。家康公の命令のような気がして、土産をいただきに、長い階段を降り始めた。最初は、カッコをつけて、シャナリシャナリと降りていたが、1/3もいかないところで膝が笑い、前にも後ろにも進めない状態となった。仕方なく、確か私は途中で靴を脱ぎ、裸足になりながら、下まで山を降りたと記憶している。
それから3回くらい下山をチャレンジし、イチゴ狩りを楽しんだが、今はもうあの気力はない。イチゴは、3回くらい実が付くそうだが、段々と甘さが無くなるらしい。そう考えると、4月の中旬に当たる17日のイチゴは酸っぱい。そう地元のタクシー運転士に聞いた私は、その時からイチゴ狩りを辞めた。しかしそう言われても、私はイチゴが大好物だ。
久能山東照宮の階段は「いちいちごくろうさん」の1,153だと思った。大抵の人は、日本平からのロープウェイを使うが、神社に勤めている人達は、毎日登っていると聞いた。私は降りることは、試みたことはあるが、登ろうと思ったことは、1度もない。
しかし家康公が亡くなったとき、数少ない埋葬者の1人として、初代正成はあの久能山の山を登ったのだ。確か尾張義直公の代わりだったと思う。家康公は亡くなる前、初代正成に「殉死は許さぬ」ときつく言われたとか。初代正成の生涯の殆どは、家康公と共にあったと言っても、過言ではない。7歳の時から、小姓として務め、大御所になっても離れず、今度は大御所付き老中を務めあげた。そして、家康公と共に天下を味わって来たのだ。普通戦国時代はもっと血生臭い時代だったはずだ。そう考えると初代正成は、どんな気持ちでこの山を登ったのだろう。正成という人は、家康公が生きているときは、とても幸せな人だったに違いないと信じたい。その恩恵を受けて、私も今幸せに生きているからだ。

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