曽水に生きて 成瀬正成 中

12 関ヶ原の戦いとその後

慶長4年、前田利家が病没すると、いよいよ主君家康公の時代が訪れたように、活発的に動き始めた。手始めに家康公は伏見城から、秋の重陽の節句の挨拶と称して、大坂城に入城。そしてこの時、自身の暗殺計画があるとの理由で、兵を連れての入城をした。噂によると、家康公の暗殺は大坂城入口で行われる計画であると言われ、同行した小吉にも、緊張感が走った。そして家康公は、それを理由に、そのまま大坂城に居座った。それから家康公は、暗殺の首謀者が加賀藩の前田利長だという噂から、前田家から前田利家の妻であった芳春院を、江戸に人質に取るという念のいれようだった。これによって、家康公は前田家を抑えた。この件で亡き秀吉が作った五大老、五奉行の制度は完全に崩壊した。

大坂城から、秀吉の正室高台院が退いても、まだ家康公は大坂城に居座り、豊臣秀頼を掌握した。家康公は、今までにない作戦に打って出るようになった。そのせいか、五奉行の1人であった石田三成と対立した。争いが激しくなり、時代は一気に乱世に逆戻りしたようにみえた。しかし徳川軍は、ようやく家康公の時代がきたと、気持ちが高ぶっていた。

慶長5年に入り3月、会津の上杉景勝の動きか不穏との知らせが入った。この事で家康公は伊奈昭綱を正史に立て、景勝を詰問した。しかしその返事が、上杉家の家老である直江兼次が書いた、かの有名な「直江状」になった。家康公は、その文面に激怒され、そして世にいう「上杉征伐」が始まるのだ。小吉は家康公に随行して、ますます忙しくなり、息子2人は本多家に預けられたままになっていた。

ここから先は

3,767字

¥ 170

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?