曽水に生きて 

はじめに

徳川家臣団は2つに分かれる。四天王や16神将に名前があがる有名な武将たちは、戦での功績が高く、武闘派と呼ばれる人物が多い。そんな中で成瀬家初代 正成は数少ない知能派の一人だ。トップは本多正信。彼の下には御三家紀州徳川家を支えた安藤直次、そして尾張徳川家を支えた成瀬正成、彼の息子である本多正純がいた。後々この3人が大御所付き老中となり、晩年の家康公を支えた。
武闘派に比べるとこの知能派は地味で、おそらく本多親子以外今年の大河ドラマでも取り上げられることはないだろう。
また今までも、成瀬正成は子孫が健在なのがネックだったのか、あまり取り上げられたことはない。
しかし、彼の生涯を紐解いてみるとなかなか面白いのだ。だから歴史の中に埋没させるのはしのびない。
そこで私はこの戦国時代、こんなビュアな人物がいたんだと、その子孫が国宝である犬山城を21世紀までどんな思いで支え続けたのか、それが犬山城の更なる魅力に繋がってほしいと願ってこの文章を書いてみた。またそれが家康公のイメージを再認識していただきたいという思いも思ってもいる。
家康公の日記「徳川実記」にも出てくる正成。武闘派の中でも認められていた人物。こんな初代を私は誇りに思う。
しかし、この文章の内容に関してはあくまで私の主観であるということだ。財団に残る彼の「御伝」 *御伝は彼の生涯の記録のこと に書かれているものを参考に書いた。だから「違う!」という部分があってもお許しいただきたいのだ。

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