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龍馬よりも後藤象二郎と乾杯したい

後藤象二郎という人物をご存知でしょうか。土佐藩出身の志士で、幕末から明治期に活躍しました。土佐出身者の中でも、どうしても坂本龍馬岩崎弥太郎の陰に隠れ、知名度も低い人物です。しかし、その功績は大きいものでした。

簡単な経歴をまとめます。1838年土佐生まれ。上士の身分で、龍馬とは雲泥の差。吉田東洋という知識人の私塾で学び、その後「開成館」という物産センターのようなものを開設。土佐の産物(樟脳やお茶などが有名だったそう)を長崎や大坂(現・大阪)に輸出するなどしていました。

この人のクライマックスは、実は龍馬との出会いでした。龍馬が書いたとされている「船中八策」を山内容堂(幕末の四賢候の1人で、前土佐藩主)に提言。容堂はそれを老中・板倉勝静を経由して徳川慶喜に建白し、「大政奉還」が成りました。当時、龍馬はニートみたいな存在であり、国の主だった容堂公になど意見を申し上げることなど不可能。そこで、ある程度身分が高かった後藤が間に入ることで、龍馬の考えが容堂に届き、それが将軍にも伝わっていくわけです。龍馬自身も後藤がいなければ「大政奉還」の意見を将軍まで届けることはできなかったでしょうが、当時の土佐藩自身も龍馬の知恵が無ければ維新政府に加わることはできなかったでしょう。お互い様ってやつですが、後藤の人生はここがMAXだったようです。

大政奉還が成り、後藤は参与として新政府に出仕。工部大輔(工部省のナンバー2)、左院議長などを務めます。しかし、西郷隆盛を中心とする「征韓論」が退けられると下野してしまいます(明治六年の政変)。その後は同じ土佐藩出身の板垣退助と「民選議院設立建白書(政府に議会開設を求めたもの)」を建議したものの、却下。自由民権運動がはじまります。

民権運動をしていた後藤ですが、内閣制度がはじまるとあっさり大臣として入閣。民権派から批判を受けます。そんな感じで不評を買いつつ、1897年に死去。

まあ、明治以降はあまり活躍していませんが、大政奉還を建白した点において評価に値するのではないでしょうか。やはり、そのあたりの時期が後藤のMAXだったようですが、その生き様になぜか共感してしまいます。マイナーな人物に思われがちですが、実はけっこう活躍したんだよと、皆さんにお伝えしたいと思います。

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