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正論はザネリと思うことにしたと言う話

人の話を聴くことが大事だと思うのだけど、聴くことがあまりにも軽視されている気がする。

自分の脳内にある正義や観念的な世界の見え方が先行していて、他者の話の背景にある人生や、経験に基づくものの見方が軽視されているような気がする。

子供を産む女性に対して『これからは子供のために生きなきゃダメよ』という言葉を使う人がいた。

それはそうなんだけど、そのレベルがどのレベんでそういう発言になっているのかは人それぞれ違う。

あまりにも漠とした言葉を尤もらしくかけることには、無意識の悪意を感じてしまう。

それが、正論であれば正論であるほど暴力的な力を持つ。

人が生きる中で、正論で生きられる人はどれだけいるだろう。

正論で生きることは難しい。

その正論が今までどれだけ人を追い込んできたのだろう。

追い込まずに正論を伝えるためには、正論を語る本人の存在の介在が必要だと思ったりする。

例えば

あんたは、これから生まれてくる赤ちゃんのために生きなきゃダメだよ。そのためにも私ができることは全力でサポートするからね。

その、付け足す一言を言う覚悟もなく正論を言う人の言葉は聞く価値がないとして、スルーしている。

ハイハイ…だ。

ひどいと思われる方もいらっしゃるだろうけど、心にズッシリと重量を持って迫ってくる正論ほどその人が必死で大変な時にかけられる。
必死で疲れ果てた時にかけられるもっと頑張れ努力が足りないと同じだ。

自らを追い込んでしまう正論から身を守るためには、スルーするスキルも必要だ。

その時には、正論を言う相手を見下すくらいの身を守るスキルが大事だと思っている。

銀河鉄道の夜のジョバンニの「あんなことを言うのはザネリがバカだからだ」と言う言葉に、僕はそうだそうだと苦笑いしながら賛同する。

正義ヅラして放たれる正論は、ザネリの悪口と同じくらいに人を傷つける。

きっと、今の時代そんなことを考えて正論を語る人はあまりいないだろう。

だからこそ、この人はザネリだなぁと思いながらのスルースキルを磨いていこうと思っていたりする。

せめて、世の中に正論は最大一日一回をまもってご使用ください。と思うのである。(正論の濫用にはご注意ください)

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