集合的無意識と自分とかについて。
これもそれも、あれもどれも。
大きな意識の記憶なのだと思うようにした。
傷も痛みも。
誰かと分かち合うために生きている。
人間という言葉が、人の間に在ると書くように。
たとえ、それが亡くなったとしても。
想いを分かち合い、喪失を悼むことで、心が重くなる。
それは、他者を自分の中に取り込むことだと感じるからこそ、辛さも喜びも自分の中に生きて存在する重みだ。
天国なんてないと、地獄なんてないと。
そう思えば楽になる。
自分の中にあるものは、他者の感じるものでしかない。
他者の中の自分こそが、集合的無意識の素材であって、自分で感じているものは、きっと誤解されていることも含めて自分であると感じている。
私は、複数の人の想いを喰って生きている。
好意も、苛立ちも、辛さも、悲しみも。
自分の自分だけのオリジナルなど、存在しない。
これが欲しかったのに。
そういう想いは、きっと誰かが受け継いでくれる。
自分を無くすこと。
自分を記号化すること。
自分を機械的なものの一部として感じること。
それ自体が、よりよく生きるということなのかもしれない。
生き物に本能があるように、人間にも、各個人にも、自分にも、本能がある。
その本能というプログラムを生きるということは、きっと、予定調和として決まっていることなんだと感じるようになった。
例えば、未来を知っている自分がいたと仮定して、その未来を変えようと足掻いても、より良い生き方ができるわけではない。
よりよく生きるということは、その未来を受け入れた上で、その生き方を味わい尽くすことだと思ったりもする。
自分を自分の生きる未来を信じるということは、そういうことなのだと思ったりする。
間違いを犯すことも、きっと、大事なプロセスなのだと。
その間違いを否定するのではなく、その間違いを大事に抱えて生きること。
人との間で、自らが集合的無意識の中のひとつとして、大きな泉の中に投げ入れられたひとつの意識の波紋として。小さな波紋として存在することが、ひとつの役目なんだろうと、そう思ったりするのです。
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