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歪み続ける世界

社会が歪む、
その原因には、思い当たることがある。

人が集まる場所の歪みだ。
今の生活の大半を過ごす場所の価値観が歪んでいるからだ。

つまり、働く場所に想いが無い。
皆が、自分の有用性を認めてもらうことに必死で、生きることや集うこと、過去のことや未来のことを考えることができなくなっている。

そして、隣にいる何人かの取り巻きのことにしか興味がない。

遠くの災害も人を繋ぐ要素になりえない。好奇心だけが先行して、次から次に起こる事件犯罪に眉を顰めることが、スタイルとなる。

スタイルやファッション、空気を読む、もしくは空気に流されるための仕草に思える。

そうだな。
自分もそうだ。
だって考えることが何かにつながるなんて思えないから。

考え始めると、何故そうなるんだ?と原因や犯人探しに思考が奪われる。

最も愚かな対応だ。

以前、徒歩で移動する時にゴミ拾いしながら歩いていたことがあった。

街を綺麗にするという恩着せがましい気持ちでなく、そこにあるゴミをあるべき場所に移すだけ。ゴミはゴミ箱へ移動させるだけ。

そんな感情を持っていた。

ゴミを拾っている僕を見て、ある人は「なんでそんなところにそんなものを捨てるんやろねー、信じられん人がおるねぇ」などと言う。

これは、原因を探す考え方だと思っている。

ゴミがあるのであれば、それはあるべき場所にみんなが移すくらいの想いがあれば、まあ、街は綺麗になる。

そこには、当然とされる無意識の行為だけが存在する。

何故?と問う前にできることからやる。それが無意識の行為を生むのではないか。

集合的無意識を他人を責める方向に向かわせることなく、するすると行動できる意識を育めるといいなぁと思ったりする。

不思議と日本にはそう言う言葉があって。
『罪を憎んで人を憎まず』
犯人探しに時間を取ることなく、仕組みを整えていくということを含む意味として考えてみる。

誰かを生贄として責め、吊し上げた先に未来はないと思ったりする。

事件やよくない物事の発生は、世界の仕組みの歪みだと思っている。

人が集まる場所の倫理観は、役に立てる人であれ。そんなものだ。

でも、そんな中で生きるのはつらすぎる。

役に立たなくても生きてていい。
むしろ、そんな人を取り込むことが大事なことなんじゃないか。

企業は利益追求体ではなく、人の想いや考え方をアップデートしていくための社風を作り上げるべきなんじゃないかなと、考えていたりする。た

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