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とりあえず、お元気で。いつかまた。

僕には心がないと感じています。
誰に対しても、悲しむような慈しむような感情がないのです。
多分、人の感情は、知識で知っているだけのことだという気がします。
ただ、憤りだけは自分の中で自覚があって、唯一働いてくれている感情です。

自分が思っている通りの仕事ができない時。
仕事を邪魔されそうな時。
集中している時に声をかけられる時。
そんなときに感じる怒り。

自分は何かの仕組みや組織に必要とされるために生きている、苛立ちを持つ機械のようなものだと思っていたりします。

生きているという感覚は、死が怖いという感覚がないと生まれないのかもしれないなぁと思う時があります。

昔は死が怖かった時があったのだろうかと記憶を探るのですが、漠然とどこか知らないところに連れて行かれて戻ってこれないと思うことが死と同義語で、それが恐怖だった時期があったような気がします。

ずっと昔。
幼い時。

でも今はそれも恐怖ではなくなりました。
そんな知らないところなんか行くこともないだろうし、連れて行かれることもないだろうと諦めているのでしょう。
また、知らないところでもなんとか生きていけるんじゃないかと思えるくらいに大人になったのかも。

そして、恐怖も悲しみも怒りも嬉しさも、どれかが欠けてしまえば、感受性なんか抜け落ちてしまうのかもしれません。きっと。

僕は本当に誰かを愛していたことなどあるんだろうかと、自分に問いかけてみましたが、僕には愛という言葉が、呪いのように感じられるほどに、執着と怨嗟と同義語だったような気がします。

そして、その感情には漠然とした恐怖も潜んでいて、確かにその時、僕は怯えきっていました。

過去に僕が抱えていた愛とはそんなものだったと、その正体が露わになった瞬間に、のうのうと一切の責任を負うような愛の行為をやめた気がします。


愛するという呪いのような感情を捨ててしまうと、自分がいなくなるような気がする反面、自分以外の人の思いが見えてくるような気がしてきました。

きっと、覗いているような異質な興味を持って自分の中を見つめること。
それが他者への思いを理解できるようになった理由だと思ったりしています。

そして、その他者の想いを確かめるように、想像のその人と自分の頭の中で会話するようになりました。

今日、今も、帰途に着く時に、気になる人と脳内で会話してます。
「あのときは、つらかった?」
「べつに」
「そうか」
「うん」

脳内の中でも、その人は素直になれずに、言葉が少なく、ただ、脳内で同じ方向を向いて、視線をあわせずに俯き加減で足を引きずりがちに歩いているだけです。

その歩き方を、いつか、つまずいてしまうのではないかと心配しながらも、手を差し伸べることもせず、途切れた会話をつなぐでもなく、ただ歩く。黙々と。

何を訊いて欲しかったんだろう。
何をして欲しかったんだろう。
どうしたら、ずっと一緒に歩いて行けたんだろう。

そんな考えてもしょうがないことを、無言で歩きながら問いかけきれなかった大きな荷物のような想いを、不恰好に必死に抱きしめながら歩を進めていく。
あの時も、今も、問いかけ方を何一つ学んでいないなぁと、暗い虚空に浮かんでいる満月を見上げながら思うのです。

本当は問いかけ方なんか知っているけれど、想像の中ですら、すでに知っている理解している回答を聞く勇気がない。それだけのことなのです。
きっと。

もし、その問いかけた回答を受け止める勇気があったら、心や愛と言われている恐ろしさと向き合うことができたのだろうかと、ふと思います。

春に向かう生ぬるくなった夜風に晒されながら、どうにもならない虚な寂しさを感じるような季節になりましたよ。

とりあえず、お元気で。

来るはずのないいつかを思って、本音を隠して想像でしか話せないひとに、卑怯未練さを取り繕うように呟いてみたりしています。

きっと、それが機械のように日々生きる自分の、後ろめたい祈りのようなものなのかもしれない。

そんな中途半端な祈りを誰に捧げているのだろうと考えながらも。
想像の中のその人は、口の端を歪めるような不器用な笑顔をみせながら、ためらうように小さな細い手を少し上げただけで、振り向きもせずに去っていくだろうと…。

そして、果たされない言葉を、僕は独り言のように呟いているんだろうと…。

とりあえず、お元気で。
いつかまた。

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