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短編小説「恋愛禁止条例」

 「お母さん? うん、いま着いた。これから帰るから。え? うまくいったよ。あー、まあ、後で話すよ、じゃあね」

 就職活動の帰り道。キミコは駅から自宅に電話を入れると、日が落ちたばかりの商店街を歩き始めた。この時間、人通りはまだ多くない。あたりにはさわやかな風が吹き渡り、秋の訪れを感じる。
 
 実際、今日はうまく話せた。もしかしたら、ようやくこの墨汁色のスーツともさよならできるかもしれない。
 
 キミコは鼻歌でも歌いたいような上機嫌に任せて、ちょっと寄り道でもしていこうかと考える。が、あとで母に小言を言われるのはめんどうだし、絆創膏を貼った靴ずれもいい加減痛いしで、むしろ近道をすることに決めた。
  
 八百屋の先の角を左に曲がって裏路地を抜ければ、かなりのショートカットになる。幅1.5メートルほどの暗い裏通りに勢いよく入った途端、ひと組の男女がしっかりと抱き合っているのが眼に飛び込んできたから、キミコは慌てて引き返す。
  
 「びっくりしたぁ」

 バクバクする心臓を電柱の陰で静める。驚きが収まると、今度は好奇心が頭をもたげてくる。なにしろ「本物」に遭遇するのは初めてだ。素通りしてもいいけれど、せっかくだからもうちょっと見たい。キミコは今度は慎重に、顔だけをそろそろと裏通りにのぞかせた・・・。
 
 およそ20年ほど前。歯止めのきかない晩婚化・少子化に頭を悩ませた政府は「管理配偶者法」を制定。通称「許嫁(いいなずけ)制度」と呼ばれるこの法律により、すべての国民は小学校の卒業とともに将来の配偶者を定められ、よほどのことがない限りその相手と結婚することが義務づけられた。
 
 もちろん各方面から反発の声が上がったが、「失いつつある経済大国の地位を取り戻すためには、安定した結婚と出産数の確保が不可欠」という政府の説明を、人々は最終的に受け入れた。
 
 また、当時の独身者も希望すれば国から結婚相手があてがわれ、そのことも導入を後押しした。「一人さみしく死ぬかもしれない」という不安が解消されることを、意外に多くの男女が支持したのだった。
 
 こうして「国が定めた相手=許嫁」以外の相手と自由に恋愛することは事実上禁止となり、ひとたび勝手な恋愛行為におよべば、進学・就職・結婚などさまざまな場面で制限や差別を受けるようになった。
 
 映画や小説などの文化も繊細にコントロールされ、決められた相手と純愛をまっとうすることが奨励された。許嫁が決まる前の幼稚園児が無邪気に「わたし、●●くんが好き」などと言おうものなら、親が呼び出しを受ける事態となった。
  
 現在では自由恋愛をたしなむ男女は激減し、数少ない異端者たちはかつての時代に「不倫」と呼ばれた関係のように人目を忍んでそれぞれの愛を育んでいる。だからキミコも、ネット上に一部残っている昔のドラマをのぞけば、生の「自由恋愛」を目にするのは初めてでつい興味が抑えられなかったのだ。
 
 暗がりの中で身を寄せ合うふたりは20代半ばといったところ。キミコの存在には気づいていないようで、ソワソワと周囲を気にしつつも、耳元でなにかをささやいては互いの体にしがみつきあっている。少しの間体を離したかと思うと、うっとりと見つめ合い再び体を密着させる。
   
 キミコにも当然国が定めた許嫁はいて、13歳のときに引き合わされたタカシとは、めでたく来年結婚することになっている。もうお互いオトナなので、会えば手ぐらいはつなぐ関係だ。だがもちろん、これほど熱烈に男性と接触したことはなく、あまりの迫力にしばし茫然としてしまう。

 なんとか落ち着きを取り戻すのと同時に、暗がりに眼が慣れくると、カップルの向こう側に誰かいるのに気づいた。業務用のバケツがいくつも乱雑に重なっている陰に、若い男性が身を潜めてキミコと同じように抱き合うふたりを見つめている。
 
 「あらあら。あの人も初めてなのかな」

 いまやすっかり冷静なキミコは、男に視線を移した。年齢はキミコと同じぐらい。つぶらな瞳がびっくりしたように見開かれていて、キミコはなぜか飼い犬のペルを思い出した。それならば、と愛犬をなで回すように、すっきりとした額や怒ったような眉毛、短めの天然パーマの髪の毛を順番に見ていく。
 
 すると突然、キミコは人生で一度も経験したことのない気持ちがわき起こるのを感じた。
 
 最初に襲ってきたのは圧倒的な興味だ。この人は誰だろう。名前は? 年齢は? 趣味は? 休日は何をしているんだろう? 家族はどんな人たちなんだろう? ふだんどんなことを話すんだろう? 次々と吹き出す疑問に頭がぼーっとしてしまう。
 
 同時に、音が聞こえるぐらい心臓が高鳴る。息苦しくて胸が詰まるのだが、何度深呼吸しても楽にならない。喉のところが圧迫されてつばが飲み込みにくい感じは、悲しくて涙が出る前の感覚に似ている。
 
 「なに、これ・・・」

 キミコが思わず声を出すと、それが聞こえたわけではないだろうが、向こうの男もキミコの存在に気づきハッとした表情を見せる。
   
 カップルは我慢ができなくなったのか、とうとうキスを始めた。おいしいものに舌鼓を打つような音が、キミコの耳にも届く。
 
 が、キミコはせっかくのその光景を見ることができない。視線はむこうの男に注がれたままだ。しっかりとした鼻筋、意志の強そうな口元、あごから首にかけてのライン。タカシとはいちいち違うそれらのパーツからひとときも目が離せず、見れば見るほど呼吸がつらくなり顔が火照る。
 
 男が、バケツの陰からゆっくりと立ち上がった。それに導かれるように、キミコも路地へ一歩足を踏み出す。
 
 「なに、これ・・・」

 キミコはもう一度同じ言葉を繰り返した。

photo by Kyrre Gjerstad

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