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短編小説「二人のふた」

 夜、家に帰ったら、「あれ」のふたが開いていてびっくりした。これはただごとではない。なにかとんでもないことが起きている。僕はそう確信し、身を固くする。
 
 「あれ」は、僕たちが一緒に住み始めた6年ぐらい前に、彼女が会社の同僚からメキシコ土産でもらってきた、おそらくはトマトソースの瓶詰めだ。
 
 「おそらく」というのは、片田舎のドライブインで買ったらしいその瓶がとても古く、ラベルの印刷がかすれて読めないからで、ガラスもひどく汚れて曇っている。かろうじて赤茶色っぽい液体のように見えるし、どうにかこうにか「tom」という字は判別できたから、ふたりの間では一応、トマトソースということになっているけれど、もしかしたらケチャップかもしれないし、もっと全然違う何かかもしれない。
 
 数日後、夕飯の支度のときに開けようとしたのだけれど、ふたが固くてどうやっても開かない。手の脂をごしごし拭き取っても、タオルをぐるぐるに巻きつけて顔が赤くなるまで踏ん張っても、びくともしない。お湯に浸して温めようが、ふたの端をスプーンでカンカン叩こうが、まったくの知らん顔。手のひらは真っ赤になり、しまいには首や腰まで痛めてしまった。
  
 彼女は僕の悪戦苦闘ぶりを横でニヤニヤ眺めては、「まだですか~? パスタ伸びちゃいますけど~」と茶々を入れる。結局その日は諦めて、「ペンネアラビアータ・トマトソース抜き」に粉チーズをかけて食べた。
 
 意地になった僕は、次の日も改めてトライしたけれど、またしても冷たく拒絶された。「どうせ開いても、おいしくないよ、こんなの」という僕の負け惜しみや、「あんた、ほんとは瓶の形をしたオブジェかなんかでしょ?」という彼女の挑発にもまるで動じない。まるで映画の中で見る大きな銀行の金庫のような堅牢さに、僕たちはちょっとした敬意を込めて「あれ」と呼ぶようになった。
 
 以来、「あれ」は僕たちふたりとずーっと生活を共にしてきた。
  
 網棚に重い荷物を乗せるだとか、人一倍お金を稼ぐとか、そういった「男らしさ」をなにひとつ要求しない彼女は、唯一「あれ」を開けることだけは最初から僕に任せて、手を出そうとはしなかった。たまに思い出したように僕が挑戦すると、「はい、がんばって~」「ほれほれ、なめられてるよ~」などと横からはやすものだからいっそう焦ってしまい、ふたは僕の手の中をツルツルと滑った。
  
 結局いつも失敗に終わり、僕たちは「まったくタフなふただなあ」「あわて”ふた”めくね、この固さには」などとひとしきりダジャレを言い合ったあと、予定していた料理のプラン変更に頭を悩ませる。
   
 近くのスーパーの店頭に「便利グッズ市」が出ていて、「どんなふたでもすぐ開きます」と謳うドイツ製のオープナーが安かったときも、彼女はそれを買おうとはせず「『あれ』に失礼だからね」といたずらっぽく笑った。
 
 2年ほど前に過去最大級の大げんか(原因は僕の浮気未遂)をしたときには、彼女が手当たり次第に部屋中のものを投げるものだから、いろんな皿やグラス、食べ物や調味料が犠牲になったけれど、「あれ」だけは奇跡的に生き延び、フタの固さだけでなくボディの頑丈さも証明したのだ。
 
 いつしか「あれ」は、僕たちの間をつなぎ止める「重し」のような役割を担うようになっていたように思う。昔みたいにふたりでお腹を抱えて笑うことが徐々に減り、逆に相手を決定的に傷つけるようなひどい言葉が次々に思い浮かんでも、「あれ」のしっかりと手のひらに残る重み、決して期待を裏切らないふたの固さ、やすやすと中身を露わにしない慎み深さを思い出しては、心の中にしまいこんできた。
 
 そう感じていたのは僕だけじゃないはずで、半年前に今住んでいるアパートに引っ越してきたときも、彼女は「腐ってるよね、さすがに。ワインじゃないんだから、熟成させすぎでしょ?」とぶつぶつ文句を言いながら、結局捨てずに持ってきた。そしてつい今朝まで、「あれ」は食器棚の一番手前の目立つところに鎮座していたのだ。
 
 そんな「あれ」が、いまリビングのテーブルの上で、何事もなかったようにぱっかりと開いているのだから、そりゃあ驚く。
 
 しかも、ずっと気になっていた中身はきれいさっぱり洗われ、逆さまに置かれた空き瓶の上に緑色のふたが不安定に乗っかっている。
   
 いつ? だれが? どうやって?
 
 手に持ったカバンを置くこともせず、リビングの入り口で立ちすくむ僕の視界に、瓶の下に白い紙が挟まれているのが目に入る。
 
 そういえば、この時間なら家にいるはずの彼女は、いったいどこにいったんだろう? 最近、考え込むような表情をときおり見せていたことと、なにか関係があるのだろうか?
  
 ようやく気を取り直してリビングに一歩足を踏み入れたとたん、今度はポケットの中でケータイが震え、メールを受信したことを告げる。彼女からだ。
 
 今度こそ僕はもう、一歩も動けない。前にも後ろにも進めず、泣きべそをかいてただひたすらに助けを求めている。

photo by Steve Johnson

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