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人生の節目、あるいはコンマについて7

京都駅の周辺をあてもなく歩きながら、僕はもうひとつ、電話をかけていた。遠くに目をやると空は鮮やかな青で、雲はもう冬のそれとすっかり様子が異なっている。

「もしもし。今年度お世話になった大山です。S先生はいますか」

発信先は、僕が一年間通っていた予備校。僕は自分が受験勉強というものに臨むに当たって、一つ運が良かったのはこの予備校と出逢えたことだと心から感じている。他の予備校と比べることは出来ないが、校長のS先生をはじめ、スタッフは生徒の悩みや相談にいつでも耳を傾けてくれた。自身ではほぼ諦めていた今回の受験についても、最後まで大丈夫と言い続けてくれたし、また進学先が決まった際には心から喜んでくれたことがとても嬉しかった。

S先生は、寡黙ながら非常に温厚な人で、ふとした時に見せるクシャッとした笑顔が特徴的だった。体型は細身で、風貌はどこか坂本龍一を彷彿とさせる。自ら話すことはあまりしないが、生徒からの相談を受ける時はきまって真剣に話を受け、すこし間を置いてからポツリポツリと話し始めてくれるのだった。今回のことについて、S先生は何というだろう?僕は彼から、何か後押しとなるような言葉が欲しかったのだ。

穏やかな声で迎えてくれたS先生。彼は僕の報告をひと通り聴いてしまうと、いつも通り穏やかな口調で話をしてくれた。

まず第一に、おめでとうということ。そして、入学許可を受け取ったのであれば、それが正規合格であれ補欠合格であれ、入学後の生活に何も違いはないということ。そして最後に、「ご家族の方とも相談して、納得する選択ができるといいですね」ということを、小さくとも温かみのある声で伝えてくれた。S先生は、合格祝賀会で父親と挨拶を交わしている。

「普通に考えれば、地元に戻ることになると思うんですけどね」

こんな言葉が口をついて出た時、そんな自分にすこし驚いたものの、違和感はなかった。「またご報告します」と先生にお礼を述べて、電話を切る。

次第に、僕はこの状況を整理できるようになっていた。

出鼻を挫(くじ)かれる、というタイミングにはなったけれど、およそこの20分ほど間で、僕にはふたつの選択肢が生まれた。医学生としての六年間を、九州で過ごすか、はたまた、生まれ育った地元で過ごすのか。

そもそも、と思い返す。

受験当時、僕は地元以外の学校へ行くという選択肢を考えていなかった。親をはじめ家族にかける負担が、大き過ぎるためだ。もし僕が完全に経済的な自立を果たしているのであれば、日本中どこの大学へ行っても困らずに生活ができたのであれば、また考えは違っていただろう。けれど実際、僕はたとえ借りるという形をとってでも、家族に負担をかけず医学部への進学は果たせない。だから、わずかであっても費用を抑えられる地元の大学に標的を絞っていた。

僕は地元外の入学試験もいくつか受けたが、それは今年度の自身の学力があまりにも頼りなく、どこか一校でも一次試験(筆記試験)に合格することを今年度の最終目標としていたためだ。

そのはずが、実際に合格という結果が出ると、僕は途端に迷い始めた。来年をもう一年過ごしたからといって、地元の大学に合格できるとは限らない...そこで家族と話し合いを進めた結果、彼らに頭を下げ九州への進学を認めてもらったのだった。それが、およそひと月前の出来事。

そこから僕が、いかにして現地への思いを積み上げてきたか。それは、すべてこれまでに書いてきた通りだ。

(つづく)



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