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インプットについての回想

こんにちは。今日もお立ち寄り頂きどうもありがとう。(ここ最近は就寝時間が遅くなっていて、いけない。なんとか快適な生活リズムを取り戻したいところ)

最近、インプットの機会がめっきりと減っている。

インプットとは「入力」という意味で、自分を新たな情報に曝し、知識や考え方などのアップデートを図ろうとするものですね。読書であったり、音楽や映画の鑑賞であったり、あるいは旅行であったり。それをする機会が、もっというとそれをしたいという欲求が、近頃あまりなくなっているという自覚が大きい。

もちろん、徐々に大学での学年も上の方になってきて、資格を取るために必要な準備をボチボチながら始めてはいる。その意味で、医学のインプットは細く続いているといえるのかもしれない。けれど残念ながら、これはいつか投稿した「締め切り」というチカラが大きく幅を利かせているのであって、僕がここでいいたい「インプット」とはすこし違う。それはもっと、自身の人生を豊かなものにしたいという欲求から生まれる「探索」行動に近いものだ。

過去を振り返ると、自分はそうした探索行動を(かなり)盛んにやっていた気がする。足繁く本屋に通ってはピンと来たタイトルを手に取ったり、TSUTAYAから映画を借りてきては1日に何本も消化したり。特に音楽についてはかつて生活をかけていたこともあって、音楽仲間やWebからの情報収集にとても敏感だった。また、旅行にもバックパックという形で国内外問わずよく行っていたなと思う。

それが、最近では積極的に本を手に取ることもなくなったし、映画もここ最近まったくと言っていいほど観ていない(学校の友人達は最新映画を本当によく観ていて、その度に話についていけず申し訳ない気持ちになる)。音楽も新たな曲を開拓することをサボっているし、ひとり旅に関してはもう何年も遠ざかっている(いつかの九州トンデモひとり旅は除く)。

これはまずい、まずいぞ!...と本来ならば思うべきなのでしょう(?)。いや、たしかにもう少し意識してみてもいいかもとは思う。けれども。

「それらのインプットは、何のためにするのか?」ということをあらためて考える。そして思うのは、「インプットという行為それ自体を自分が楽しめるのなら、いくらでもやればいいと思う。けれどそうでもない場合、特定の目的がないのであれば、気乗りしない自分に無理を強いてまでする類のものでもないかも」ということだ。

上に書いた過去のインプット経験を今一度思い浮かべてみると、その大半は「漠然とした焦燥感」が背景にあったなという思いが強くある。今の自分じゃダメだ、知識をつけないと、成長しないと、前に進まないと、経験値を積まないと、語れる体験を得ないと、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。一度目の大学生活では長い休み期間に入る度、「今回もどこへ行くか決めなければ」とジリジリとした気持ちで旅先を決めていたことを思い出す。本に手を出すことも映画に足を運ぶことも、基本的にはそうした「何もしないと、取り残されてしまうんじゃないか」というある種の強迫観念があったことは否めない。

もちろん、インプットの動機がそのようなものだったという事実と、実際にそれらのインプットから得たものの大きさについては切り離して考える必要がある。どのような本も、映画も、音楽も、旅も人との出会いも、結果的におそらく何一つとして僕の人生にとって無駄であったものはなく、自覚の有無に関わらずすべて今の自分を構成する要素となっているはずだ。あの頃の動機がどんなものであったとしても、足を動かして出会えてよかったという出来事は幾らでも挙げられる。

ただ、今の自分はあの頃の自分とはきっと違う。このnoteにせよ、医学の資格試験にせよ、ピアノ曲のアップロードあるいは音楽制作にせよ、今の僕にはアウトプットしたいものがあって、今はそこにできる限りの時間や頭を使いたいという思いがある。もしその過程で、(アウトプットのための)インプットへの欲求や必要を感じれば僕はそれをするだろうし、またもしふとした合間に当てのないインプットを欲することがあれば、僕はそれを楽しむだろう。

少なくとも、「漠然とした焦燥感」に駆られる形で「インプットありきのインプット」を自分に強いることが以前に比べて少なくなり、それが今の状況として表れているのではないかなと感じた。

やりたいことをコツコツと、今日も積み上げて参ろう。

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