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言葉のあり方

先日、大学の友人から久しぶりに連絡があった。

10年以上前に通っていた一度目の大学で、彼女とは同じゼミに通っていた。何でも今度、ゼミのOBG会らしき催しがあるとのことで、その場にはゼミの先生も参加するという。 僕はそれを聞いて、少し気が重くなった。

教授や准教授などの大学教員が主催する「ゼミ」というものは、彼らの下に集まった比較的少数の学生が特定の研究分野などについて調査や発表、討論などを行うグループを指す。僕が所属していたゼミは大学学部内のいわゆる人気ゼミで、そのOB・OGの多くはいわゆる大企業に就職することで知られていた。

そのゼミを主催する先生もまたやり手として知られていて、若くして教授の職につき、海外経験も豊富で、肩書きにはハーバードやら何やらと華々しげな文字が並ぶ。実際、英語を主要なテーマとしたゼミではないにも関わらずメンバーの半数を帰国子女が占めるという、他と比べてもかなり特異な環境だった。

その先生は、僕らを前にして口を開くたびに、「このゼミのこと、皆さんのことがとても大切だ」と話した。ゼミに入りたての当初は、そんな話を彼から聞くたび、このグループの一員になれたことを誇りに思った。何しろ僕らはこのゼミのメンバーとなるために、小論文の提出、先輩達による面接、グループディスカッション、先生による最終面接と、いくつもの関門を乗り越えてきたのだ(まるで就職活動さながらに)。きっと、先生もそんな自分たちのことを誇りに思っているに違いないと思っていた。

けれどすぐに、僕らは悟ることになった。

数ヶ月後、先生が僕らの前で変わらず口を開く。「このゼミのことが、あなたたち一人一人のことがとても大切だ」そして「XXゼミ、万歳」と。けれど最早、その言葉に反応する者は誰もいない。気付かれないよう学生同士で顔を見合わせ、気まずくおどけてすらみせる。僕らに残るのは、苦味の残る「白々しい」という感情だけだった。

蓋を開けてみると、先生はこのゼミの運営に何も関わっていなかった。そのすべてを助手の大学院生達に任せていて、時々ゼミの途中に顔を出しては僕らの討論を聞き、最後にひと言ふた言コメントを残し、また忙しそうに帰っていく。学生側とコミュニケーションを取ろうという気がある訳でもなく、僕自身、彼とゼミの中で話をした記憶は一度もない。僕らはゼミのメンバー同士で苦楽を共にした関係にはなれたが、先生への親密さのようなものは育みようがなかった。一学年で15名前後いた学生のうち、彼は何名の名前を覚えていたのだろう?現役の時でさえそんな有り様なのだから、卒業して何年も経ったOB・OGの名前は?それぞれの進路についての関心は?...考えるまでもない。

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言葉とは、大きな力を生み出す可能性に満ちている。偉人のスピーチや作家が綴る文章、アーティストの囁やく歌詞でなくとも、近しい人のさりげない言葉は時に僕らを深く癒し、励まし、勇気づけてくれる。

けれど同時に、言葉とは僕らを惑わすものでもある。誤解を生むこともあるし、それは失望にすらも容易に姿を変える。「そんなことをするなら、最初から何も言わなければいいのに」僕が教授に抱いたような感情を、きっと多くの人が抱いたことがあるのかなと思う。

こんなことをいう僕自身、自分の言葉と行動との落差や矛盾にしょっちゅう思い悩む毎日だ。あまりにひどいときには自分自身に呆れ、いっそのこと他の動物のように何も語らず、ただ黙々と動くことが自他にとって最も優しい在り方なのでは?なんて考える時もある。言葉はとにかく薄っぺらく、問題を起こすし、僕らを傷つける。実際、人とのコミュニケーションにおいて「出てくる言葉は一切信じるな、信じていいのは行動だけだ」なんて啓蒙するビジネス書だったりを目にすることも少なくない。そこには一片の真実が隠れている、と感じる自分もいる。

それでもこうして言葉を使って書くことをやめず、伝えることをやめないのは、なぜなんだろう?僕は、僕らは言葉というものを使って何をしたいのだろうか。

言葉、というもののあり方について考える。これからも考え続けよう。そしてできるなら、自分にとっても他人にとっても優しいあり方を見つけたいと願う自分がいる。

OBG会の当日、先生にはどんな言葉をかけようか。

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