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ある一日

 壁、ドア、カーテンに囲まれた薄暗いこの小さな部屋で今私は目を覚ました。正確には1時間ほど前から目は冷めているのだが、布団から出られないのだ。寒いのだ。こういうときやっぱり人というのは自然に無力なのだなとしみじみ思う。この力関係に根性などで対抗しようなどという無謀な挑戦はせず、私はただただ自分自身の無力さを自覚し、時が来るまで布団にくるまり中でじっと待っている。

 布団にはかなり助けられていると思う。一方、ベッドもすごいなとよく思う。というのも、我々人間には体重があり、立てばそれは足が支える。歩いたり仕事をしたりする間も基本自らの体重は自らのこの二本の足が支えてくれているのだ。座っている場合はかなり軽減するが微妙にお尻が体重を支えてくれている。さあ、ここでベッドにいるとき、今のように寝ている時はどうなのだろ。なんとすべてベッドが支えてくれるのだ。これは一種の感動を覚える程の快感である。体に溜まった疲れがベッドに接する面からみるみる放出されていくのだ。自らの何もかもをベッドに託してもいいのだ。ああ、こういう人に出会えたらなあとしみじみ思う。

 さて、こんな事を考えている間に部屋の暖房が効き、ある程度外も暖かくなってきたので、私は起き上がった。とはいっても、やることがない。あまりにも暇なので、床に転がっていた学校の現代文の教科書を手に取り、中を見てみることにした。私自身本は好きであり、割と多くの本を読んできた方だと思う。本の中には、今まで自分の知らなかった考えや世界がたくさん存在しており、私にいろいろなことを教えてくれる。この教科書には多くの小説や論評がまとめられているのだが、これは例外。実につまらない。一つ一つの話に全く興味が湧か無いからだ。こうしてパラパラと見ているだけでも、境目の話。トロンボーンを吹く女子大生の話。となり町の山車の話。あげくの果てに知らない男の夢の話まで書いてある。私は何をしているのだろうと思いながら、教科書をもとの位置に戻しそこにあったポテトチップスをゆっくりと開けた。現代社会において多くの人は時間が無いという。中には一日がせめて30時間あったらなあ。とか馬鹿なことを言う人もいるみたいだが、今の私には到底理解できない話である。

 お腹が痛くなったので面倒くさいなと思いながらもトイレに向かった。トイレには当たり前だが便座があり、その横の台の上には父親の本や雑誌がたくさん置いてある。そのためいつも用を足しながらふと新ナニワ金融道青木雄二物語二などを手にして眺めたりするのだが、そのたびにジェネレーションギャップを感じ、閉じる。今回も少々時間がかかりそうだったため隣の本を手にしてみることにした。川端康成の『掌の小説』であった。この本は二ページから十ページ程の短編小説がいくつも集まった本であり、今回はその中の「写真」を読んでみることにした。ああ、男と女の恋というのは実に儚いなあと思いながら用を足し終え再び我らの部屋へ戻った。

 部屋に戻ると真っ先にお前と目があった。

 お前はいつもどおりその無愛想な表情をしていたが私はそんなお前が好きであった。ころころと感情によって表情を変える人たちなんかよりその真っ黒な四角いボディで堂々と構えているお前の姿からはたくましさすら思えた。だからこそ私はお前と共に毎日を過ごし、ともに笑ったり、傷ついたり、興奮したりする。決して今日も例外では無いと思う。

 そうして、お前と遊んでいるうちに、気づいたら外には太陽が出始めていた。もうこんな時間かと思いお前に別れを告げた。確かに一日中勉強をしたり、仕事をしたりするには体力や集中力を使うと思う。しかし、同様に一日中ネットで動画を見たり、ゲームをしたりするのも案外集中力や体力を使うものだと私は思う。今日も1日頑張った自分にお疲れ様と声をかけ、そういえば今日はクリスマスだったことを思い出し、私はこの薄暗い部屋で再び眠りについた。 



これは私が高1の冬のころ、国語科の「創作文を書け」という宿題で提出し教師から最高評価を受けたものである。