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普通より自然でいたい_『ティファニーで朝食を』

子どもの頃から
文章を書いたり、イラストを描いたり
編み物や裁縫をしたり、紙粘土で工作したり
いわゆる“創作”活動が好きだった。

とくに言葉を紡ぐことには興味が深く
小学生から本も漫画もたくさん読んだ(読んでいる)し、
中学高校では友人との手紙交換に熱中したし
大学は当然のように文学部を選んだ。

今思うと、文学より経済とか法とか、
勉強すべきことがあったような気もするけど、
文学部で、しかも英米文学を専攻したことで
私の人生観が変わったことはたしかだ。

大学1年生のとき、必修のゼミで
運命の出会いがあった。
いわゆる男女の恋愛的な運命ではなく、
ひとりの教授との出会いだ。
ものすごく頭がいい(はずな)のに、
だれから見ても変わり者。
車のことを大量殺人兵器と呼んで、
生涯独身主義者を自称する。
いつも全身真っ黒な服を着て、
たまに寝癖がついている
(ついでに近所に住んでいるくせして授業に遅刻する)。
本人には最後までいえなかったけど、ひそかに
ハリーポッターシリーズのスネイプ先生に似ているなと思っていた。

そんな彼が説くアメリカ文学はひどく冷酷で、禍々しくて、難解で、
それ以上に、驚くほど魅力的だった。
ゼミはもちろん、それ以外でもアメリカ文学と教授の考えに触れていたくて
シラバスから彼の授業を探すようになるまで
そう時間はかからなかったと思う。

その年、私が受けたスネイプゼミの議題は
トルーマン・カポーティの
『ティファニーで朝食を』だった。
今更多くを語るまでもない名作だが、
私が最も心をうたれたのはホリーの言葉。

It may be normal, darling; but I'd rather be natural.

ーーー「普通よりも自然でいたい」

こんなに心に傷をつけた一文はほかにないし、
これからもないのではないかと思う。

カポーティが作品へ自身を投影したとすれば
同性愛者である自分:自然に対して
異性愛:(当時の社会的な)普通とか
文学研究として考えられることは様々あるが、
それよりも重要だったのは、
はたして私自身は自然なのか、普通なのか。どちらでもないのか。
どんなに考えても答えは出なかったし、
この一文が気になることが答えのような気もする。

ただ、人生の分岐点においては、普通であることより
自然を選ぶ私でいたいと思うようになった。
それだけでも、大学4年間の意味があったなと思う、本当に。
私の人生は間違いなく大学で変わったのだ。

まあ、正直いえば会社員なので社内外の評価も気になるし
周りの目を気にして思うように生きられないこともあるけれど、
それでも、私だってホリーみたいに普通より自然でいたい。
その気持ちは忘れたくない。
晴れた朝にティファニーで朝食をとるときだって、いつもの私でいたいのだ。
(ちなみに、「ティファニーで朝食を」は叶うことのない理想を美しく表した言葉だったのに、最近、ニューヨークのティファニーにはカフェができたらしい。60年経つとそういうこともある)



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