インフルエンザに犯されて
インフルエンザの大流行を、無根拠に他人事のショーとして見ていた身としては、じっさい自分が罹患して苦しんでいる姿を素直に認める。ということは受け入れ難い。
流行り物にはシニカルに構える。これが僕の矮小な自意識であり、自分自身を守る心の砦だった。
Windows全盛期にはMacintoshを愛したし(当然いまはAndroidを勉強している)、ミスチルやモンゴル800を小バカにすることで心の安定をチャージしてきた。
リベラル思想が盛んな九州生まれという土地の問題なのか、ただ単に細胞や教育や家庭環境の特性の問題なのかは分からない。
とにかく、ある物事がクールであるかを判断する場合に、一般に流行っているか否かというポイントが占めるウエイトは僕にとって大きい。
それはインフルエンザも同じで、流行りモノである以上、インフルエンザに罹るのはとてもダサいことなのだ。
ダサい自分を直視する勇気がないとき、人は2通りの道を選択する。
過去の自分を都合よく忘れて野に下る、これが1つ。
そして2つ目は誰にも悟られないように自分の内側で抱え込み、やり過ごす。
病院で「エーガタです」と診断された帰路まで、僕はマル2の方でいこうと考えていた。
だが自宅の玄関ドアを開け家族の顔を見たとたん、内部に溜め込まれた熱はきかんしゃトーマスのオープニング映像とシンクロしてポッポした。
お正月がなにかにどこかの寺社で開催される福男イベントの始まりのように、ウイルス達は我さきにと門をこじ開けて躍動した。
ベッドに横たわる頃には期待は実感に変わり、37.8 ・38.0・38.5と体温計のメーターが更新されるにつれ、僕の決意はマル2からマル1に変容していくのであった。
目を閉じてゾフルーザがウイルスと闘っているシーンを想像してみる。
ジョン・レノンが僕に語りかけてくるには「イマジン、天国がなかったら?」。
でもこの後が聴き慣れているアレとは違った。
「イマジン、地獄って今の事だろう?」
「イマジン、お前が小馬鹿にしてたインフルエンザってこんなにも苦しいだろ」
「イマジン、ロキソニンで誤魔化しても必ずまた明日現るるぞ」
「イマジン、夜中に熱でうなされて目覚めるって孤独だろう?」
「ウッフーウウン♪」
「都会の人は自然を求めて田舎に出かけるが、1番身近な自然を忘れている。それは"自分の身体"という自然だ」と書いたのは池田晶子だった。
自分の意思とは無関係に心臓は動き、肺は呼吸する。
ただそこに超然とある自然。その人間の身体を貫く神の規律があるとするならば、ウイルスは規律を具現化するためのストーリーの一部だろう。
なぜなら規律とは、ストーリーなしでは成立しないから。
あらゆる宗教に法典や寓話があるように。
だとすればインフルエンザに罹ることを自分の体の内側で起こる"ショー"だと捉えるのも、あながち誤りではないはずだ。
これまで他人の側で見ていたショーが、とつぜん自分の側で起こる。
それを除菌だの予防接種だので回避しようとした自分を恥じた。
どんなにドアノブを拭いても開幕するんだ、今夜もどこかで。
ショウ・マスト・ゴー・オン。
※フレディに捧ぐ
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