カブトムシのワープ(1)

完膚なき夏の終わりをカブトムシの全滅が報せてから数日後。
会社員の渡辺はせっせと卵さがしに勤しんでいる。

ケースの底の残土の中に、夏の間にメスが産みつけた卵。
それら一つひとつを手でかき分け、そっとつまんでから土に還す。
神事めいたそんな作業を、渡辺は密かに「卵の土入り」と名付けて毎年楽しみにしていた。

40歳手前で一度もセックスをしたことが無く、というか最近はマスターベーションの気力さえも失せている冴えない渡辺だが、毎年「卵の土入り」を語る時だけは不愉快きわまりない洒脱さを全身に纏うのである。

『指先の力の入れ方を間違えたら、すぐ壊れちゃうんだよ。参ったね、女のアレと一緒さ』

渡辺が未経験者であることを見抜いている同僚は、心の中で彼を嘲笑していた。だが職場における渡辺の存在はコピー機や伝票やホワイトボードのそれと同じ、つまり取るに足らない存在である。ゆえに年に一度のカブトムシの季節に、渡辺が不愉快な軽妙さを感じさせたからといって、ことさら大きな問題に発展することは無かったのである。

しかし今年は様子が違った。

渡辺がいつものように「卵の土入り」の様子と自分がいかに繊細な男であるかを身振り手振り語っていると、部長の小笠原がやってきてこう言った。

『渡辺くん困るんだよ。そんな嘘か本当かよく分からない話を仕事中に職場でされちゃあね。』

『ですが部長、私のカブトムシ好きは社内でも有名な話です。』

高揚していたため、渡辺の答えは珍妙なものとなった。部長は眼鏡の奥から蔑むような視線を目の前の冴えない男に送っている。それに気づいているのかどうか、渡辺は続けた。

『部長もひとつどうですか。よろしければカブトムシの幼虫を差し上げますよ。』

『私は昆虫が嫌いなんだ。君はこの数日ずっとカブトムシの話ばかりしているが、来週の業務コンペの見積もりはどうなっているんだね?』

同僚はみな仕事をするふりをしながら、渡辺と小笠原部長のやりとりに耳を傾けている。

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