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28.菅原道真と藤原時平のあいだで

 新たな事務所の近くには時平神社なるものがありましたので、お参りに行ってきました。なんとなくですが、その土地の神様には挨拶しといた方が良いと思っているので。

 さて、時平神社ってどんな神様が祀られているのだろう……。調べてみると、藤原時平という人物が祀られていることが分かりました。なんとこの人物、菅原道真を大宰府に左遷した張本人ではないですか!

ふじわら‐の‐ときひら【藤原時平】

平安初期の公卿。左大臣、正二位。通称、本院大臣・中御門左大臣。父は基経、母は人康(さねやす)親王の娘。菅原道真大宰権帥に左遷して藤原氏の地位を確立し、国司交替の厳守、一二年一班の班田収授の法励行、最初の荘園整理令を発し、権門の山川藪沢独占の禁止など律令制の維持につとめたが、三九歳で死亡。後世、道真の祟りと信ぜられた。著に「時平草子」「外記番記」、国史の編纂として「日本三代実録」「延喜式」の撰修に参画。貞観一三~延喜九年(八七一‐九〇九)

コトバンク

 資格にせよ何にせよ、何かしらの受験生の多くが菅原道真、すなわち天神様にお祈りをしていると思います。僕もその内の一人で、行政書士試験前に亀戸天神社の賽銭箱に千円突っ込んできました(笑)。それが何の因果か宿敵たる藤原時平に挨拶に行くことになろうとは……。

 藤原時平自身は別に千葉県(当時は下総)くんだりまで来ていません。伝承によると、子孫の藤原師経が来て祀ったとのことですが、その「藤原師経」が何者なのかよく分からない。ふなっしーで有名な船橋には以下のような伝説があるそうです。

平安時代末期の治承年間(1170年代)、藤原師経公という公家が讒言(ざんげん)にあって、下総の三山に流されることになってしまった。
(中略)
千葉氏から三山・田喜野井・藤崎の地を与えられ、配流の身ながらも平穏の日を送った。そして三山明神(二宮神社)に先祖の藤原時平公を合祠し、日夜敬神につとめた。

船橋市西図書館郷土資料室

 しかし同時代の「藤原師経」を調べると、平家打倒を図ったとされる鹿ケ谷の陰謀に加担した西光の子……という人くらいしか出てきません。その藤原師経は六条河原で斬首という結末を迎えているし、そもそも藤原時平の子孫でもないので、船橋市の伝説に出てくる「平穏の日を送った」藤原師経とは全くの別人っぽいです。

 とにかく、どうして千葉県八千代市で時平信仰なるものが盛んになったのか、その由来には謎が多いです。なんと近辺には「時平神社」と名の付く神社が四つもあります。さらに「この地域の近くには、道真を恐れて、天神・天満宮はないとされる」とも言うそうです。(地図を見るとほどほどに離れた場所に天満宮がいくつもありました) 僕としては菅原道真に感謝をしつつ、藤原時平にも敬意を忘れないという態度でやっていこうと思います。

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