嘘をつく代償

昨日、課題研究で久しぶりに日中に外出した。調査で水源を何ヶ所か周り、学校でPCで発表原稿をまとめた。


前日まで本来なら行かなければならなかった2泊3日の研修が行われており、私はそれをすっぽかしたが、同じ研究グループのクラスメートが私にお土産を買ってきてくれたらしく、恐縮した。

また、普段は何かと体調不良で休むことの多いメンバーの1人は、その研修に参加したらしく、本当に楽しそうに内容を語り、先生もそれを聞いて嬉しそうだったので私は気後れしてしまった。

いや、自分は彼女達が研修に行っていた間勉強に時間を有効に使えたんだ、と自分に言い聞かせたが、今週の勉強の出来を振り返ると、やはり負い目ができてしまった。

しかし嘘をついてしまった以上、私は後悔している素振りは見せられなかったので、そのことを考えないように努めた。そのおかげで、何とかその時は負のスパイラルに陥らずに済んだ。

でも、自分からズル休みしたことをほのめかす発言をしてしまったので、先生にも多分バレていたと思う。



この頃、昔より嘘を平気で付けるようになったと思う。


なんというか、他人も気づかないような極小さな行動の変更で現実が上手くいくならば、その変更を、他人に気づかれないように自分の脳内だけで行えば、事が起こった後でも、今とその時とで辻褄があっていたら、嘘をつく事が最善の策として選択されても、当然だと考えるようになった。

何かの解決策として、「嘘をつく」という純粋な手段が、追加されたように、「罪悪感」という感覚に鈍感になった。

「罪悪感」という感覚を「罪悪感」と認知しにくくなっている。

それが、小さな規模、コンパクトな、些細な事のためならば、上手くいっていたかもしれない。しかし、今回の研修など、回避する運命の規模が大きかったり、同じ運命を辿るはずだった人間が多い場合、人は、自分だけ苦労を避けた者に、敏感になるのだろう。


嘘をつくという行為は、時折、バレた時に大きなリスクを伴う。

それは、嘘によって回避されるものの重さが大きい程、大きくなり、また、同じ運命を辿る人間が多い程、大きくなる。

それは、人間の連帯感からくる感情であるのだろう。

さらに、嘘をつく行為に慣れてしまうと、嘘をついた時に起こる感覚「罪悪感」「羞恥心」に鈍感になる。

感覚、特に負の感情の感覚に鈍感になると、人を不快にさせても、共感出来なくなるのだろうか。そうだとすると、人は、離れていくだろう。


私は、人気になりたい願望や、全ての人から好かれたい願望に執着は決してないが、単に、人と接していて下品だったり、無礼にあたるのは嫌なので、この負の感情も、自分自身へのストッパーや危険信号の役割として、ある程度は持っていたいと思う。


まずはリハビリとして、「嘘をつかない」ことを自分に課して生活してみる。


復習と、意志を思い出すために、定期的に自分のnoteは見返したい。


以上。終わり。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

4

いりなか

ここは自分の気持ちの備忘録になればいいと思ってます
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。