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先生と出会えたことこそ「ドラマ」だった。

#創作にドラマあり
そのテーマを見て、「M先生のことだ」と思った。
先生と過ごした時間は、映画のように美しく、思い返すたびに胸が熱くなる。

1・愛に溢れたM先生。

M先生との出会いは短大時代。『創作表現・脚本』という授業だった。
私の通っていた短大は、編入する学生が多いせいか、様々な分野の授業があった。そのひとつが『創作表現』。脚本だけでなく、小説、パフォーマンス、映像などがあり、それぞれ現役で活躍する作家や映画監督が担当していた。

M先生は『創作表現・脚本』を担当する先生。もちろん、現役の脚本家でもある。
映画や舞台が大好きだった私は「これを逃したら脚本を学べる機会はない」と思い、真っ先に受講を決めた。

友達と一番前の席を陣取り、授業を心待ちにしていると、現れたのは170㎝を越える長身の女性。
チャイナのような、和風のような……独特の服装に、下駄。髪は明るい茶色で、赤いメッシュまで入っている。その人こそ、M先生だった。(年齢不詳のM先生。当時なんと、60歳を超えていたそうだ!)

先生は教室に入った途端、「暑いわね!」とガンガンにクーラーを効かせ、それでも足りない!と教授室から大きな扇風機まで持ってきた。授業が始まって間もないのに、「なんだかすごい人がやってきた!」とざわめく教室。先生は今まで出会った誰よりも奇抜で、豪快な人だった。

脚本の授業は、前期に基礎を学び、後期に実際15分間のオーディオドラマ脚本を作って提出する、というもの。
堅苦しさを嫌う先生は、学生に話を振りながら授業を進めた。何気ない雑談も多く、それがまたとっても面白い。

「彼氏いないの? 彼氏なんてね、いい男見つけたら足を挫いたフリして助けてもらうのよ。か弱く『どこどこまで行きたいんですけど……』って言って送ってもらって、連絡先聞くの。そしたら彼氏なんてすぐできる!」

いやいや、そんなことできないから……。心の中でツッコんだものの、先生は実際、その戦法で恋人を作ったことがあるらしい。恐るべし、M先生の行動力。確かに先生は人懐こく、一緒に居ると心を許してしまう気がする。(私にはハードルが高すぎて、一生かかっても無理そうだけど)

先生はいつも学生を下の名前で呼んだ。私のことも「かおりさん」と。目上の人から下の名前で呼ばれることなどほとんどない。恥ずかしさもありつつ、とても嬉しかった。

特に私は一番前の席だったので、よく話を振られた。夏休み明けなんて「あら、かおりさん、ちょっと太った?」と。先生は遠慮せず、思ったことをズバッと言葉にするのだ。
先生の言葉には、いつも嘘がない。だからこそ、心にグサッと刺さっても嫌味には聞こえなかった。(「こりゃ、ちゃんとダイエットしないとやばいな」と焦った)

そして嘘がないからこそ、講義の中から「脚本に対する熱い想い」を感じた。「もっと多くの人に魅力を知って欲しい」という想いが、言葉の端々からにじみ出ていた。

2・創作に向き合う時。

短大1年生の終わり、オーディオドラマの脚本を提出した。
子どもの頃から天使が見える女の子のお話。高校生になり、ずっと側に居てくれた天使の男の子が見えなくなってしまう、という結末だった。

誰よりも映画やお芝居が好きと思っていたからこそ、「良いものが書きたい!」「先生に褒められたい!」「みんなに感動してほしい!」という想いが強かった。(邪心まみれだ……)それなのに書けば書くほど、直せば直すほど、脚本が面白くなくなっていった。

結局、納得がいかないまま提出してしまった。

後日、履修生の原稿が製本された。面白い作品ばかりで、一気に読み終えてしまった。ただ、自分の脚本だけはなかなか読むことができなかった。友達が褒めてくれても素直に喜べず、悔しさばかりがつのった。

先生から原稿が返ってくると、最後のページにメッセージが書いてあった。

大人になるということが、どういうことなのか。素敵なことであり、何か哀しいことであり……。一種のメルヘン、寓話になっていていいですね。

てっきり、先生からは厳しい評価を貰うと思っていた。その証拠に、褒められるような、いい出来の脚本では少しもなかったのだ。
けれど先生は、その悔しさまでも理解し、包み込むように、脚本を認めてくれた。それが何より嬉しかった。

2年生になっても「今度こそ納得が出来る脚本が書きたい!」と、また『創作表現・脚本』を聴講することにした。嬉しいことに、仲の良い友人も同じ考えだった。
二人で聴講願を提出すると、先生は「ほんと、もの好きな子たちがいるのね」と呆れながらも、どこか嬉しそうだった。

M先生は脚本の他に、『創作表現・パフォーマンス』という、舞台について学ぶ授業もしていた。後期には授業の集大成として、学園祭で劇の発表をする。

一緒に脚本を履修している友達に受講しないかと誘われたが、私は迷った末に断ってしまった。「人前に出るのが苦手」とか「帰りが遅くなってしまう」とか、本当にくだらない理由だったと思う。その頃の私は、勇気を出さない選択ばかりしていたのだ。
代わりに、新入生歓迎会で行う劇では代役を務めたり、学園祭では舞台のビラ配りをしたり、サポート役に回った。

先生や『パフォーマンス』を履修する友達を見ていると、皆とても輝いて見えた。一つのことに熱くなる姿が美しかったのだ。自分とはとても遠い存在に感じ、履修しなかった意気地なしの自分がとても残念に思えた。

だからこそ、脚本は素晴らしいものが書きたいと思った。

「前よりもっといいものを書く!」「今度こそおもろい作品を書く!」そんな意気込みは、1年の頃より増していた。他の学生とは違い「2度目の脚本」というのも、焦る原因だった。

提出の時期は就活も被っていた。就活が苦戦するほど、イライラして集中出来なかった。家、学校、行き帰りの電車……出来る限り脚本と向きあったつもりだったが、結局1年の時と同じ。納得がいく作品は作れなかった。(むしろ、1年の時より下手だった)

今思えば「どう思われるか」ばかり先行して、自分の本当に書きたいことが見えていなかったのだと思う。プロットを提出するとき、いつも先生に指摘を受けていた。核となるテーマがぼやけていたのだ。けれど当時の私は、2年の時間を費やしてもその事実に気付けなかった。

今度は、いったいなんて書いてあるんだろう。
ドキドキしながらページを捲ったけれど、返ってきた原稿に否定の言葉なんて一つもなかった。最後に書かれていたのは、「卒業しても、創作は続けてくださいね」

上手い下手じゃない。先生はきっと、脚本が好きで真剣に取り組む姿勢を評価してくれていたのだ。
私に創作の楽しさを教えてくれたのは、M先生だった。

3.急な知らせ。

卒業してからは年に1度のペースで先生脚本の舞台が上演され、脚本を履修していた友達と観に行った。

当時の私は、幸せだった短大時代から一転、人生が上手くいかずボロボロだった。新卒で入社した会社を5カ月で退職。その後アパレルショップにアルバイト入社するも、始めはやりがいを感じられず、「しんどいけど、まあこれでも仕事があるだけいいか」なんて諦めながら生きていた。

一方、先生は変わらず自分の道を貫き、輝いていた。そんな先生を見たら、どこかホッとした。
「大人になることは、諦めること。妥協しながら生きていくこと」いつの間にかインプットしてしまった考えは、間違っていたと気付いた。先生の姿は「いくつになっても夢を見ていい」と教えてくれるようだった。

観劇後、先生に挨拶をすると、いつものように面白おかしく話を披露してくれた。

「さっきコンビニで色々買い物してたら店員に『おたくさまは元気でよろしゅうございますね』なんていわれたのよ」

先生のことだから、きっといつもの大きな声で買い物をしていたのだろう。
「先生、相変わらずですね!」なんて笑っていると、短大時代に戻ったようだった。

別れ際、先生は「次観に来るときは、全員彼氏を連れて10人で来なさい」と言った。「その分チケット売れるし」
やっぱり、先生は相変わらずだった。

次の舞台は遊女を描いた、切なくも趣ある舞台だった。有名な方も多数出演され「先生はこんな方たちとお仕事しているんだ!」と興奮し、改めて尊敬した。

今回も先生に挨拶してから帰ろうと思ったが、次から次へと声を掛けられていて、なかなか近づくことができなかった。

その時、先生の変化に気付いた。いつものおしゃれなヘアスタイルが、綺麗な坊主頭となっていたのだ。
一瞬病気を疑ったものの、いつも通りの元気な姿に「きっと病気じゃなくて、いつものオシャレだ」と思った。あまりに堂々としていて、坊主頭もかっこよかったからだ。

やっとのことで声を掛けた時、先生は「あら!」と嬉しそうな顔をした。
周りの人たちに「前に大学で脚本を教えていた子たちなの、いつも来てくれてね……」とも、紹介してくれた。
二言三言交わすだけの慌ただしい挨拶だったけれど、先生は終始とても優しい表情だった。喜んでもらえるならこれからも欠かさず観劇に来ようと、密かに思った。

それから次の舞台は3カ月後、割とすぐだった。
今回は「記憶」にまつわる、不思議なストーリー。私が観劇した中では初めての現代劇で、とても温かい舞台だった。先生の作品の中で一番好きだと思った。

舞台が終わり、いつものように先生を探すと、今日はいらっしゃらないと知らされた。
声を掛けられなくても、一目でいいから会いたかったな。少し残念に思いながら、舞台の余韻に浸って帰宅した。
帰りの電車で「そう言えば彼氏を連れて10人で観劇するって話、叶えられてないな」なんて、約束した日を懐かしく思った。


それから数週間後のこと。
いつも先生のチケットを採り継いでくれる友達から、LINEが届いた。

2泊3日の店長研修を終え、東京から新幹線に乗っていた時だった。くたくたに疲れていたのでポップアップを確認せず、何気なく開いて、その文字に目を疑った。

M先生が亡くなったって、今日連絡が来た。
肺がんだったみたい。本当は舞台が上演する前に、亡くなっていたんだって。

舞台が終わるまで知らせないで欲しい。舞台を純粋に楽しんでほしい。そんな先生の願いから、舞台が終わり、落ち着いてからの連絡だった。
最期までかっこよくて、演者、作品、関わる人々、すべてを愛する先生らしい。

一緒に研修を受けていた同期と別れ、ひとりになった途端、涙が溢れ出した。

もっと会いたかった。話したかった。先生の作品が見たかった。「先生と出会って、脚本も舞台ももっと大好きになりました」そんな簡単なことも、伝えられなかった。
寂しさと後悔はなかなか消えず、先生を惜しみ、友達と慰め合った。

それから友達と集まるきっかけだった舞台もなくなり、徐々に会うことも減って行った。店長に昇進してからは仕事も忙しくなり、いつしか創作することもなくなってしまった。
忙しさの中で、寂しさを紛らわせていたのかもしれない。

4・ドラマのような生き方。

それから4年。私はアパレルの仕事を辞めた。
まとまった時間があったので、ずっと気になっていた散らかり放題の部屋を片付けることにした。

まずは幅を取っていた、大量の学生時代の書類を処分した。脚本の冊子はもちろん捨てず、大事にしまった。やっぱり恥ずかしくて読み返せなかったけれど。

そして懐かしいタイトルが印字された、脚本の原稿を見つけた。ところどころ赤い文字で添削されている。先生の文字だった。
最後のページを捲ると、記憶の通り先生のメッセージが書かれていた。

大人になるということが、どういうことなのか。素敵なことであり、何か哀しいことであり……。一種のメルヘン、寓話になっていていいですね。

そうそう。先生、そんなこと書いてくれてた。懐かしさに浸っていると、その文に続きがあることに気が付いた。

何かを得る為に何かを失う、人は、常に自覚するしないにかかわらず、そうやって生きているように思えます。

当時はその意味が良く分からず、読み流していた言葉だった。
先生がいない今、その意味がひどく心に沁みた。蓋をしていた寂しさも、一気に溢れ出した。あの時は、こんなに早く先生とお別れするなんて思っていなかった。

けれどその言葉は「失った時は、得る時でもあるのよ」と、今の私に教えてくれている気がした。
「私がいなくなってからも、いい出会いがあったでしょ?」と、いつも通りの豪快な話し口調で。

届かないと分かっていても「ありがとう」と呟いた。先生の言葉は消えずに、今の私に届いたよ。

久しぶりにまた何か創作したいなと思った。今度は本当に書きたいことを見失わずに、楽しみながら。


脚本を、舞台を、ドラマを、誰よりも愛していたM先生。
きっと先生と出会えたことこそ、「ドラマ」だった。
先生の姿は、私の記憶の中で永遠に残る。ドラマとして、今も生きている。

かっこよかった先生には、ちっとも追いつけない。
けれど、私もいつか先生のように、ドラマのような人生を送りたい。


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