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遠きにありて思ふもの

45年前、サーフボードを抱えて出かけようとすると、東京に住む明治生まれの祖母が板こ乗りかと聞いてきた。祖母も波に乗っていたというのだ。彼女の故郷は安房。南房総サーフィンのメッカ和田浦で育ったのだ。ぼくは祖母が波に乗る喜びを知っていることに、えらく感銘を受けた。最もサーフィンと縁遠いはずの祖母が最高の理解者だったのである。

和田浦の浜へ下る路地から、水平線と青い海と白い波頭が見えただろう。鄙びた漁港を挟んで白渚海岸から千歳白子辺りまで松林と広い砂浜と田舎道が続いて、きれいな形の波が人知れず寄せていたはず。
館山と鴨川の間に鉄道が繋がったのは大正14年だから、祖母の暮らした頃は辺境の地であった。時たま乗り合いバスでも来たのだろうか。
ペットボトルや空き缶やビニールゴミが落ちていなかった時代。椰子の実が流れてついて島崎藤村の詩が生まれた頃、祖母たちは波乗りに適した板を探しだして100年前の波でロングライドしていたのだ。

ぼくは昭和30年代に和田へ連れて行かれた。
夏に安房鴨川辺りまでは、東京から海水浴へ出掛ける旅行客もあったと思うが、さらに南の和田は海沿いの素朴な漁師町という印象だった。
高速道路もなく、自動車も今のように普及していない時代、日本海しか知らなかったぼくには言葉も人も違う異国のように感じた。 
母や祖母の後ろに隠れるようにしていた記憶がある。生まれてはじめて食べた出前のカツ丼が美味しくて、あの感激を今も忘れていない。房州言葉を話す浜の子供たちに遊んでもらい宝貝を拾った。たぶん宝貝のことを安房の方言でねこじゃと呼んでいた。
いまも和田の海が見える場所に祖母の眠る墓があるので、サーフィンに行く時は線香をあげて帰るのだ。

祖母に波乗りの話を聞いてから「人は波に乗る者」と確信した。海辺で育ち目の前に波が寄せていれば、波に乗りたくなるのが自然なのだ。
古代より日本各地の浦々に暮らした海人たちも、素朴な板や丸木舟で目の前に寄せる波に乗って遊んだのではないか。舟や筏を作る技に長けたものがボードのような物を製作したかもしれない。

魏志倭人伝に壱岐対馬を渡ると四千余戸の海人の暮らす村があり、倭人の海人たちは入墨を顔、全身に彫り、深い海、浅い海に潜水して魚や鮑などを獲ると記述がある。
古墳時代に数千、数万の戦士を乗せた船団の水夫も海を熟知した海人だった。

縄文期の人々は海浜に住んで海の恵みを糧に生きていた。ヤスやモリ、骨製の釣り針が各地の貝塚から出土していて、多くの縄文人が内陸より海岸の近くに村を作っていたことがわかっている。干潟の貝を拾う原始的な採取から、深い海に潜水して鮑や魚を獲る海人となったのだ。

鯨を獲るようになると、男の海人は羽差という鯨漁師になった。羽差の漁は凄い。
網やモリで鯨を弱らせ鯨の背に飛び乗り、頭に穴を開けて綱を括り付け、海中に潜り込んで鯨の心臓を突くのだ。こんな荒技は海人の男たちにしか出来なかった。

祖母の産まれた安房の海人(海女)は古代朝廷に鮑を貢納していたから、千年以上も前から現在まで潜水漁を続けていることになる。
民俗学の文献に波に乗った人の記録があるかどうか分からないが、民俗学者、宮本常一の「海に生きる人びと」を読んで日本は海人の国だと知った。本には祖母の故郷安房の海人のことも書かれている。
たい焼きや串団子を買ってきて縁側で食べていた祖母の姿を思い出した。何故もっと話しを聞かなかったのだろう。会えなくなった人皆にそう思う。

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