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メリーゴーランド

孫たちが乗ったメリーゴーランドが廻ってくるとぼくは手を振る。日曜日の遊園地はたくさんの人で賑わっていた。音の洪水の中で遠い子ども時代のことを思い出す。動物園の片隅の小さな遊園地で、突き出したアームに固定されたボートはぼくを乗せて円周を回る。父親のいる場所を通過する度に目を合わさないように、水の流れに手を入れうつむいていた。手を振ることも声を出すこともなく。父に申し訳ないような気持ちになる遊園地の乗り物が苦手だった。
孫は嬉しそうにピースサインとニッコリのサービスをしてくれる。
ぼくのアルバムの写真はどれも笑っていない。恥ずかしがりで人見知りで上手く表現できなかったこともあるけど、色々なことを推察すると心に影が差していたのだ。
母は東京から地方の家に嫁いで、父の実家と折り合いが悪く、商売にも馴染めず、自分で店を出して家に居なかった。ひとりっ子のお嬢様で気が強く贅沢好きな彼女が、質素で古めかしい商家の嫁には合わなかったのだ。
父はそんな状況から逃避していた。
物心ついた頃には団欒らしき家族の集いはなく、両親の仲の良い姿も記憶にない。
父は優しい人でよく遊びに連れて行ってくれたのだが、計画を伝えられることはなく、車の助手席に乗せられて何処かへ向かうと、魚釣りだったり、海辺の水族館だったり動物園の時もあった。サプライズのつもりだったのか気まぐれだったのか必ず不意に連れ出された。
父にもぼくが楽しく過ごしてるのかつまらないのかわからなかっただろう。
小学4年の頃だったと思うが、汽車に乗って海へ出かけた。季節は覚えていない。暖かな陽射しはあったけど夏ではなかった。家庭教師の先生がぼくを連れて行ってくれることになったのだ。とても優しく穏やかな先生で国立大学のグリークラブに所属していた。待合わせの駅へ行くと、先生の彼女が一緒で、その予想外の事態にぎこちなくなった。好き嫌いの多いぼくは彼女の作ってきたサンドイッチが食べられなかった。先生と彼女は二人座って海を見ていた。ぼくは背中を向けていつまでも寄せる波に石を投げていた。申し訳ないことをしたと思う心の傷は瘡蓋のようになって、忘れられない記憶になっているのだ。
遊園地は何かを思い出させる場所である。
日曜日の遊園地で乗り物に乗らず父のように立っていた。笑顔の子どもたちにスマートフォンを向けて。
孫は朗らかで元気いっぱいだ。夕方には雨が降り出したがレインコートを着た彼は楽しそうで良い日曜日だった。


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