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ジョンレノンが撃たれた日

1980.12.8.
僕と演出助手のHは飯倉周辺のビルの屋上をしらみつぶしにロケハンしていた。時計のプロダクトショットの背景となる街の風景を探して。ビルのオーナーや管理人に交渉しては、屋上からの景色を眺めて廻るのだ。時には無断でビルの階段を上がり非常扉を開けてそっと忍びこんだ。

薄曇りの空がずっと僕たちを眺めていた。無人の屋上は其々魅力的で、空と街の間に思い思いの殺風景さで佇んでいる。最後のビルで僕は一枚東京タワーを撮った。Hはそれをいい写真だと言ってポケットにしまった。

日も暮れて凍えた僕らが小さな喫茶店に入ると店内にはジョンレノンが流れていた。二人は温かいココアを注文し煙草を一服してジョンの音楽やロックの話しをした。僕たちはこの仕事で初めて会ったのだが、Hを新しい友人のような気がしていた。

Hは北九州育ちで、ずっと野球少年だったらしく、プロ野球選手に最大の敬意を示す男だった。誰かの本塁打の軌跡や変化球の曲がり方を熱心に語るのだ。彼の古いワーゲンの室内は散らかっていて使い込んだ野球のグローブやカセットテープやスポーツ紙が放りこんであった。

翌日ジョンレノンがダコタハウスの前で射殺されたとニュースが伝えていた。ぼくは飛び上がって驚きすぐにHと話したくて、オートバイで冬の街を駆け抜けた。仕事場に出勤するとHがぼくを捜しあて開口一番ジョンの事件を興奮気味に話しだした。

それから僕たちは同じように年を取ったけど、1980.12.8をずっと忘れなかった。ジョンレノンの命日には必ずビルの屋上にいた寒い日のことを思いだして。

その頃Rは就職した大阪の大きな企業をやめてアルバイト生活をしていた。新しく建った郊外の団地に越してお母さんと二人暮らし。
娘の就職も叶い母は安心したはずだけどRはドロップアウトしてしまった。

暫くしてRは東京に出て来る。
そしてRとHと僕は同じ職場で仕事をすることになった。ぼくとRは結婚して子供を育て小さな店を開いた。子供も独立して昔のような青春が戻ってきた時、唐突にRの命の限りを知る。

2014.12.8
ビルの屋上にいたあの日から34年後Rはぼくらの知らない場所へ旅立った。Hは34年間ぼくの撮った東京タワーのポラロイド写真をなぜか大切にしていた。Rが亡くなってしばらくして二人が会った夜、彼はあの東京タワーの写真を持って来た。少し色あせて寂し気な東京の空が映っていた。そして何かが巻き戻されていく感覚にとらわれた。ジョンレノンがニューヨークの路上で撃たれた日、僕たちはビルの屋上から東京の街を見下ろしていた。Rは大阪の空の下で何を思っていたのかな。古いポラロイド写真が遠い日の思い出を連れて来た。

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